白鳥路から金沢城【石川門】へ
迷林撮影 カメラ:Nikon D5500
ヒヨドリがお出迎え
大きなさくらの木が続いて、ヒヨドリがたくさん騒いでいます
ふちどり加工してみました
こちらは鳥カメラ(COOLPIXーP900)で撮りました
金沢の三文豪
白鳥路を後にして
百万石通りへ
金沢に、さくらと小鳥を撮りに行きました。
兼六園のさくら、8割咲いていました。
小鳥がたくさんいました。うれしいです。
シジュウカラをあちこちで見ました。
ヒヨドリもたくさん
近くで、「ホー、ホケキョッ」て、聞こえて、
ウグイスみつけた。
スズメの群れかと思ったら、エナガの群れだったんだな。
うまく撮れなくて、とっても残念。
さくらと、エナガ
シジュウカラがすごく近くにいました。
ジョウビタキのオス。
ちょっと遠くてうまく撮れなかった
最後は、ヒヨドリ
ayukameちゃんとクミさんと遊林と4人でたくさん歩いて楽しかったなぁ。私が鳥を撮るのに夢中になるものだから、待たせてばかりでごめんなさい。 ジョウビタキを撮っている頃には、皆さん疲れてベンチに座っていました。
今夜は、とにかく小鳥をアップしました。
きれいなさくら、たくさん撮れたから、また明日。
金沢のソメイヨシノはもう少し
早咲きの山桜は、もう散っているものも。
ツバメが飛んでいました。
「心の中の勝負は51対49であることが多い」と書かれていたことを思っていた。
心理学者の河合隼雄さんが、ベストセラーになった「こころの処方箋」の中で、「心の中の勝負は51対49であることが多い」と書いています。
あるとき、無理に連れて来られた高校生で、椅子を後ろに向け、私に背を向けて坐った子が居た。
このようなときは、われわれはむしろ、やりやすい子が来たと思う。(中略)こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたいが51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持の反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかも知れないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持と、藁にすがってでも助かりたいという気持ちが共存している。しかしものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」というほうが勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。
51対49というと僅かの差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0の勝負のように感じられている。サッカーの勝負だと、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。
このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話をするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだわからないのである。
河合隼雄「こころの処方箋」より
【原文】
能 発 一 念 喜 愛 心
不 断 煩 悩 得 涅 槃
凡 聖 逆 謗 斉 回 入
如 衆 水 入 海 一 味
【読み方】
よく一念(いちねん)喜愛(きあい)の心を発(ほっ)すれば、
煩悩(ぼんのう)を断(だん)ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり。
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、
衆水(しゅうすい)、海に入りて一味なるがごとし。
・喜愛の心
「正信偈」には、これまで見てきましたところに、まず、阿弥陀仏の本願の徳が讃嘆(さんだん)してありました。本願というのは、一切の人びとを浄土に迎え入れたいという願いでありました。そしてその願いが、常に私どもに差し向けられていることが述べてありました。次いで、釈尊がこの世間にお出ましになられた、そのわけが述べてありました。それはただ、『大経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私どもに教えようとされたためであったのでした。そして、五濁(ごじょく)という悪い時代社会に生きる私どもは、阿弥陀仏の本願を説かれた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は教えておられるのでした。
それでは、『大経』に示されている釈尊のお言葉に従うということは、どのようなことであるのか。また、釈尊のお言葉に素直に従うことによって、私どもはどうなってゆくのかが、これから、八行十六句にわたって述べられます。
まず、「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」と詠われます。「能発(のうほつ)」(よく発す)というのは、文字通りには、起こすことができるという意味ですが、私どもが自分で(喜愛(きあい)の心を)起こすことができる、というのではなく、阿弥陀仏の願いによって、その願われた通りに、(喜愛の心が)私どもの心の中にわき起こるということを意味します。
さきに「応信如来如実言」(如来如実の言を信ずべし)と詠ってありました。「信」がもとになって「喜愛」があるわけです。しかも親鸞聖人が教えられる「信」は、私どもが自分の意志で起こすものではありません。「南無阿弥陀仏」としてはたらく、阿弥陀仏の本願の力によって起こるものと教えられています。
阿弥陀仏の願いによって私どもに信心が生じ、その信心によって歓喜(かんぎ)の心が起こされるのです。『大経』に、「あらゆる衆生(しゅじょう)、その名号(みょうごう)を聞きて、信心(しんじん)歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん」と説かれています。ここには、「南無阿弥陀仏」という名号によって「信心歓喜」があると教えられています。しかも「信心」と「歓喜」とが一つのこととして説かれているのです。
まことに、信心をたまわっていることに気づかされることは、うれしいことなのです。同時に、自分に願いが差し向けられていることを素直に喜ぶことが、実は信心をいただくということになるわけです。
・「煩悩と涅槃」
「煩悩」とは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用です。私どもの心には、いつも一〇八種類の煩悩がはたらいていると言われていますが、その代表的な、最も深刻な煩悩を「三毒(さんどく)煩悩」と言います。それは、貪欲(とんよく)(欲望をいだくこと)と、瞋恚(しんに)(憎み怒ること)と、愚癡(ぐち)(道理に無知であること)の三つです。
あらためて自分の心の中を静かにのぞいてみると、まさに教えられている通り、そのような煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず自分を支配していることを認めざるを得ません。自分の利益のためになると思い込み、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていると、釈尊は教えられたのです。しかも、私どもは、自らが引き起こしている煩悩によって、自分自身が苦しんでいる、そのことにすら、なかなか気づけないでいるのです。まことに、道理に無知だといわなければなりません。
私どもが身に受けているさまざまな苦悩から解き放たれるために、釈尊は、その原因である煩悩を取り除く道を教えられたのでした。そして、すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態を「涅槃」と教えられたのです。
さらに、煩悩を完全に滅した状態というのは、人の「死」であることから、「涅槃」は「死」と理解されるようにもなり、人が亡くなることを「涅槃に入る」とか、「入滅」とか言われるようになります。やがて「涅槃」についての理解はさらに深められ、「悟り」という意味に理解されるようになりました。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは、煩悩をなくさないままで、煩悩のなくなった状態になるということになりますから、矛盾した言葉になります。けれども「悟り」ということであれば、「悟り」は煩悩の有る無しをはるかに越えた境地ですから、煩悩を断ずるとか、断じないとかにかかわりなく、「悟り」としての「涅槃」に到達することがあるわけです。これが「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という教えの一般的な理解です。
しかし、「悟り」ということであれば、悟れる人と、悟れない人とができてしまいます。「正信偈」に示されている親鸞聖人のお心からすれば、「涅槃」は、ある個人の「悟り」というようなことではなく、釈尊が教えられた通り、私どもは五濁の世に生きなければなりませんが、その自分の身に届けられている信心を喜ぶことによって、煩悩を飛び越えた「涅槃」が、その人に実現するというではないでしょうか。
・凡夫も聖者(しょうじゃ)も
さらに、親鸞聖人は「凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし」と続けられます。
「凡聖」というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」です。
「逆謗」とは、「五(ご)逆(ぎゃく)」という重い罪を犯した人と、「謗法(ほうぼう)」の人、すなわち仏法を謗(そし)るという悪をはたらく人です。五逆は、①父を殺すこと(害父) ②母を殺すこと(害母) ③聖者を殺すこと(害(がい)阿羅漢(あらかん)) ④仏のお体を傷つけて血を流させること(出(しゅつ)仏身血(ぶつしんけつ)) ⑤教団を分裂させること(破(は)和合(わごう)僧(そう))です。 「回入(えにゅう)」とは、回心(えしん)して帰入(きにゅう)することと言われます。自分の思いにこだわり続ける心をひるがえして、真実に目覚めることです。常に阿弥陀仏の願いが差し向けられている身であるのに、そのことに気づかないのは、仏の願われていることよりも自分の目先の判断を大切にしているからなのです。ですから、自分のはからいを捨てて、真実に背を向ける心をひるがえすことが必要なのです。大きな願いの中に生きている、本来の自分に立ち戻ることが必要なのです。
煩悩にまみれ続けている凡夫であろうと、煩悩を滅し尽くした浄(きよ)らかな聖者であろうと、また、たとえ五逆というような重い罪を犯す人であろうと、さらには、仏法を謗るような人であろうと、自分本位という思いを大きくひるがえして、真実に対して謙虚になり、本願を喜べるようになるならば、阿弥陀仏の願いによる救いにあずかることになる、それはちょうど、どこから流れてきた川の水であろうと、海に注ぎ込めば、みな同じ塩味になるようなものだと親鸞聖人は教えておられるのです。
どのような状態にあろうと、またどのような経歴であろうと、阿弥陀仏の願いのもとでは何の違いも区別もない。問題は、私どもの今のあり方がどうであるかということで、真実に背を向けたままの愚かな自分にこだわり続けるのか、それとも、そのような自分に阿弥陀仏の願いが向けられていることに気づかせてもらって喜ぶのか、というところに決定的な相違があります。
凡夫も聖者も五逆や謗法ですら、ひとしく心をひるがえすならば、さまざまな川の水が海に流れ入って一つの味になるようなものだ、と詠われていますが、この句の直前にあるように、一念の喜愛の心を起こすならば、自ら煩悩を断ち切ることができない者たちであろうとも、涅槃を得させてもらえるのです。
ここには、本願に触れた一念の喜愛の心が、何にも先立って大切であることが教えられているわけです。
『正信偈の教え』古田和弘著東本願寺出版
真実の信心は かならず 名号を具す
True and real entrusting to Amida is unfailingly accompanied by saying the Name.
『顕浄土真実教行証文類』「信巻」
月参りに行って、はっとした。名号は「南無阿弥陀仏」。
親鸞聖人は信心とは何かということについて『教行信証』「信巻」の別序に
それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
と言っておられます。つまり真実の信心、信楽をいただくということは、私の中から起こってくるのではなく、その根っこは阿弥陀如来の大悲の願心にある。文字どおり如来より賜りたる信心なのだと言われるのです。そしてこういう信心を私のうえに開いてくださるのは、ほかならない大聖釈尊の大悲の御教化・御方便のおはたらきなのであり、その釈尊のお導きによって私のうえに、私の中からは起こってくるはずもない信心、如来選択の願心を根として賜る信心を明らかにしてくださる。これが真実の信心であるとおっしゃって、
しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶(へん)す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。
とおっしゃっいます。「しかるに」とおっしゃるのですから、それが真実であるにもかかわらず、多くの人々は自分自身の心の中が清らかになることが信心だというように、知的な関心へ信心を持ち込んでしまって、真実の証りが明らかにならなくなってしまう。あるいは定散心、つまり道徳的な善い人間になりたい、あるいは人間の関心で宗教的な人間になりたいという、そういう関心のところへ持ち替えてしまうことによって、金剛の真実信心ということに対して蒙昧になっていってしまう。このような如来回向の真実信心にたがう在り方がすべての過ちのもとになっているのだと、『歎異抄』は私たちに呼びかけてくださっているのでありましょう。
歎異抄講話3 廣瀬杲(たかし) 法蔵館
杲という字は「あきらか」という意味がある。
友人が、歎異抄十四条について、広瀬杲先生の「歎異抄講話3」のところを写真で送ってきた。十四条は読んでも理解しがたく、ここにある金子先生のことばでようやく理解できた。
金子大栄先生が岩波文庫の中でこの十四条をさらっと御領解なさってお述べになっておられるものをあらためて拝読しまして、「なるほど、このとおりでいいのだな」、こう気がついたのです。ですから金子大栄先生の御領解のお言葉をまず最初に拝読しておきます。
経には十念の称名によって八十億劫にわたる重罪が滅ぶと説かれてある。それは十悪・五逆の罪の重いことを思い知らせるものであって、念仏を滅罪の行にせよということではない。しかるに異議者はこの経説によって念仏滅罪説を立てるのである。それは全く他力の信心ではない。真実の信心は、一念発起の時に、すでに必ず仏となるべき身とならしめ、一生増罪のままにして命終に大涅槃を証せしめられるのである。その如来大悲の恩の有難さから念仏もうすのである。
それに反して念仏によって往生するものならば、罪業が無限であるから念仏に退転があってはならない。そして臨終のめでたさも期さねばならぬであろう。しかし病苦のいかんによっては、それも期しがたいということではあるまいか。
真実の信心は、臨時の正念にあるのではない。煩悩の日常において、摂取不捨の願心をいただくことにある。
「歎異抄」岩波文庫 金子大榮校注こう先生はおっしゃっておられます。これは金子大栄先生先生がずいぶん以前にお書きになった御領解の言葉でありますが、・・・
「そして臨終のめでたさも期さねばならぬであろう。」この期さねばならぬの意味が分からなかった。期というのは、「時」だと思っていたので、ここが読めなかった。
友人に質問した。
「期すというのは、期待するということです。
臨終にそうした兆しが現れて、諸仏菩薩が迎えに来てくれることを期待する。
期待するというのは文脈からそう読めるという意味で読んでいるのです。正確な現代語訳でなくて、意訳にしか使えませんけど。」
という返答をいただいた。なるほど。
金子先生の本には、この「期する」という表現が他にもある。当時よく使われた言葉なのだろうか。