『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

座礼する・頭礼するということ

親鸞聖人のご和讃に、ずっと気になる言葉がある。
  劫濁のときうつるには
  有情ようやく身小なり
  五濁悪邪まさるゆえ
  毒蛇悪龍のごとくなり

身小(しんしょう―身が小さくなる)。真宗聖典ではここにだけ書かれている言葉。
「身が小さくなるということは、仰ぐものを失うということなんです。」
と佐野さんがいっていたことを最近よく想う。ようやくいくつか思い当たることがでてきた。それで年賀状にも書いた。


ある書物に、
出仕 ※自座の前で竪畳(たてじょう)に向かって軽く頭を下げることを座礼という。内陣出仕の憍慢心を慎む意味。
と書かれていた。自座というのは自分の座るところ。自分の座る畳に一礼する。「出仕」は私にとっては日常だから、もしかすると見慣れた言葉なのかもしれないが、今まで気に留めなかった。

考えてみると、本山(東本願寺)では頭礼して入る場所がいっぱいあった。本堂、講堂、名号(「帰命尽十方無碍光如来」が多い)がかかっているお部屋と、食堂。

仰ぐということと、座礼する頭礼するということ、その中身は憍慢心を慎むということ。ようやく繋がった気がしている。儀式や作法がないととてもじゃないがやらないことに違いない。

「憍慢(きょうまん)」というのは、
憍 自分について自らの心のおごり高ぶること
慢 他に対して心がおごり高ぶること。自他を比較して、他を軽蔑し、自らをたのみ心が高ぶる。

慢は他と比較して起す驕(おご)りで根本的な煩悩とされるが、憍は比較することとは無関係に起る。家柄や財産、地位や博識、能力や容姿などに対する驕りで付随して起す煩悩であるとされる。「憍」を八憍といい、盛壮憍(元気であるという誇り)、姓憍(血統が優れているという誇り)、富憍(お金持ちだという誇り)、自在憍(自由だということの誇り)、寿命憍(長生きであるという誇り)、聡明憍(頭が良いという誇り)、善行憍(良い行いをしているという誇り)、色憍(容姿の誇り)。

 

そのような自分であると慎む、と。慎まなくていい人なんていないくらいの人間描写だ。
慎むと、ちょっとおとなしくなるんだろうな。いや背筋が伸びるのかもしれないな、「竊(ひそか)に」みたいに。