『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

式三段

式三段
廟堂に跪ずきて涙を拭い、遺骨を拝して腸を断つ。入滅、年遥かなりといえども、往詣挙りて未だ絶えず。哀なるかな、恩顔は寂滅の煙に化したもうといえども、真影を眼前に留めたまう。悲しきかなや、徳音は無常の風に隔るといえども、実語を耳底に胎す。選び置きたまう所の書籍、万人之を披きて多く西方の真門に入り、弘通したまう所の教行、遺弟之を勧めて広く片域の群萠を利す。おおよそその一流の繁昌は、殆在世に超過せり。倩、平生の化導を案じ、閑に当時の得益を憶うに、祖師聖人は直也人に匪、すなわち是権化の再誕なり。已に弥陀如来の応現と称し、また曇鸞和尚の後身とも号す。皆是夢中に告を得、幻の前に瑞を視し故なり。況や自ら名のりて親鸞と曰う、測り知りぬ、曇鸞の化現なりということを。しかればすなわち聖人、修習念仏の故に、往生極楽の故に、宿命通をもちて知恩報徳の志を鑑み、方便力をもち有縁無縁の機を導きたまわん。願わくは師弟芳契の宿因によりて、必ず最初引接の利益を垂れたまえ。よりて各他力に帰して仏号を唱えよ。頌に曰わく、

伽陀 身心毛孔

びょうとうにひざまずいて なんだをーのーごい いこっとはいしてはらわたをーたつ にゅうめっとし はるかなりと いえーども おうげいこぞって いまだーたえず あーわれなるかなや おんがんな じゃくめッのけむりに かしたもうと いえーども しんねんをがんぜんに とどめたーもう かなしきかなや とくいんな むじょうのかぜに へだたるといえーども じつごをみみのそこにーのこす えらびおきたもう ところのーしょじゃく ばんじんこれをひらいてーおおく さいほうの しんもんにいり ぐずうしたもうところのーきょうぎょう ゆいていこれをすすめてーひろく へんにきのーぐーんもうーをりす

しゅうしゅうねんぶッのーゆーえに しゅくみょうつうをもって ちおんほうとくのこころざしをーかんーがみ ほうべんりきをもッて うえんむえんのきをみちびきたまーわん ねがわーくは していほうけいのしゅくいんによーりてかなーらず さいしょいんじょうの りやくをーたーれたぁまえ

微音 よっておのおの たりきにきして ぶッごうをとなえよ

じゅにいわく