『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

続 思いだせない

http://meirin41.hatenablog.com/entry/2013/03/14/093832

「我聞如是」と「如是我聞」に違いがあるはずだったが、思いだせない。先日先輩に聞こうと思っていたのだったが、優先して聞きたいことがあったので、言いだせなかった。初コメントをいただいたので恥をしのんで今思っていることを書きます。違ってるかもしれません。

いろいろ大事な過程をすっ飛ばしているとは思いますが、「大経の願」といわれる18願だけが信行ともに他力であるということと、「我聞如是」と「如是我聞」に違いがあるということは別ではなく、

大経が聞成就に始まることは、その先に、大経には書かれていないけれども、如来のよびかけがあって、聞こえたということがあるのではないかと。

ややこしくなるかもしれないけれど、『歎異抄』の

  弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

それは、如来によびかけられてあるので、よびかけがとどくとき(念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき)にすくいになる、ということで、それは「私」がいて(信成就)、聞く、ものとは違うのであり、大きな違いなのではないかと。

20願19願は行が自力で、「私がとなえる念仏」。そうでないのが「聞成就」にはじまる、「如来よりたまわりたる信心」ということなのでなかったなぁ、と。

ろくに聞法会に行かなくなって10年余り。今年こそはいろいろいきたいと思う。そのうちどなたかにおたずねして、また書きます。