『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

若坊守研修会 講義の一部【1】

2012年度 若坊守研修会 講義 三明智彰師

(テープ起こしではなく、自分のメモを参考にしているため、言葉を補足しています。先生の言葉に補足しているのではなく、自分のノートの言葉に手を加えているので、少し違うところもでてくると思います。)

 

何か残るような研修会になってほしい。

【基本的なところ】

合掌:本山での態度の持ち方のひとつに仏さまに合掌するということがある。手を掌わせるということは、相手を尊敬するという姿勢である。格闘技のボクシングや柔道の構えを考えると手が離れているということがある。対して合掌するということは、相手を尊敬するという姿勢、また危害を加えないという姿である。

念珠:数珠は数える珠と書くように、称えた念仏の数を数える道具としてもある。念珠といういい方もする、念珠は念ずる珠と書く。仏さまを念ずる珠。手を掌わせる、手を束ねるためのお道具。一連や二連の念珠があるが、二つの輪で包むのは、手が散らないようにするためのもの。

下記 御文 二帖目五通 紹介していただきました。

そもそも、この三四年のあいだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもって他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆえは、数珠の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人、まったく、数珠をすてて仏をおがめとおおせられたることなし。さりながら、数珠をもたずとも、往生浄土のためには、ただ他力の信心ひとつばかりなり。

改まった場には改まった格好で行くように、仏に手をあわす時は念珠を持つ。そうでないなら、「仏を手づかみにするようなもの」。

三帰依文:全仏教の共通点は三宝に帰依する。三宝とは帰依仏(仏陀、仏さま)帰依法(法律、規則、規範、道理、教え)帰依僧(僧侶ではなく僧伽サンガ)ヨーロッパはキリスト教がベース、日本は仏教がベース。よく知られている言葉「祇園精舎の鐘の声(平家物語)」の「祇園」は、阿弥陀経の最初に書かれている(お釈迦さまが阿弥陀経を説いた場所)「祇樹給孤独園」のこと、最初の字と後の字で「祇園」。「祇樹給孤独園」は、釈尊の生きておられる時にできた仏教の最初の修行道場。祇樹給孤独長者(と呼ばれた人)が、孤独な人、親がない子、子がない親を集めて、自分の富を与えた。ビルゲイツがもうけた莫大なお金を提供するように。「沙羅双樹」はクシナガラのサーラの樹の下で釈尊が亡くなった。その樹が悲しんで色が変わったという。そのような、日本の文化、仏教が根底に流れている環境・状況に皆さんおかれている。

僧伽サンガ:和合衆。人が仲良く集まる。仏教の内での友だちの集まり。

仏・法・僧、三つが宝であり、「南無阿弥陀仏」は、三宝に帰依する内容を持つ。

南無阿弥陀仏:「阿弥陀仏」は無量・無限のいのちと光という意味がある。無量寿は無量の大悲のこと。大悲は親が子どもをかわいく思うごとく。愛と慈悲は違う。愛は憎しみになる。殺人事件さえおこる。愛の極限は拘束される。束縛、縛る。そうでないのが慈悲。光は闇を破る真(まこと)の智慧。限りない智慧、限りない慈悲。

南無はインド語の「ナマステ」と同じ。

続く。