『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

若坊守研修会 講義の一部【2】

2012年度 若坊守研修会 講義 三明智彰師

(テープ起こしではなく、自分のメモを参考にしているため、言葉を補足しています。先生の言葉に補足しているのではなく、自分のノートの言葉に手を加えているので、少し違うところもでてくると思います。)

 

【日常の思い、有様】

今どういう心境?、いい坊守、いいお母さん、窮屈な思いをされているのではないか。

レジメにあるように、結婚してお寺にはいって・・・同じような立場で毎日を送っている私たち、あなただけじゃありません。集まった皆さんと共に考えてみましょう。感じてみましょう。帰られるときに、ちょっと気が楽になってもらえたら・・・

真の友だちは自分が困った時にも支えてくれる友だち。

病気になったら離れるでは辛い・・・

夫婦も、だんなさんが頼もしいから結婚したといっても長くは続かない。頼もしく見えていただけ。そのうち女性の方が「こっちについて来なさい」になることも。

結婚の時、誓わせられる。誓いが軽くなっているように思うが誓いは本来重いもの。

誓いが四十八あるお経がある。法蔵菩薩が阿弥陀仏に成る誓い、「一  たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。」取らじというのは、「とりません」ということ。たとえ私が仏になることができても、私の国に地獄・餓鬼・畜生があるなら、私は仏になりません。正覚というのは仏陀の覚り。誓いは、~もしできないなら、私は仏陀になりません、というもの。学生さんの誓いなら(軽く誓われているが)、~します、もしできないなら卒業あきらめます、というのが、誓い。重いもの。

好きでお寺に生まれた人はいない(生まれる場所を選べない)。お寺に生まれたことを納得できない人もいる。思春期に悩むことも多い。

有田憂田(うでんゆうでん):大経の言葉、p58

田有れば田を憂う。宅あれば宅を憂う。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。

田有れば田を憂う。子あれば子を憂い、夫あれは夫を憂う。父・母あれば父・母憂う。(自分自身が、自らの)心に使われてしまって安心できる時がない。(持たないことを憂い、持ったことにまた憂う。)

人は思い通りにいかない。思い通りに行く方がおかしい。その思いは、止めることもできるのだが、また思い通りにならないことができてくる。

(私たちはお寺に身を置くが)お寺の人だけが嫌な思いをしているのではない。サラリーマンも同じように嫌な思いをしている。向田邦子が幼い時、葬式の弔問に父の上司が訪れた時、土下座をしてお参りに来られたことにお礼を申した姿に「父も戦っている」と思ったという。(ペコペコしてカッコ悪いと思わずに。)自分だけ大変だと思っていたが、実は相手も大変な思いをしていたということがある。

自分の顔は見えない。でんでんむしなら目がにょっと伸びて見えることもあるだろうが、私たちは隣の家の障子が破れていることを、自分の家の破れた障子からみているということがある。

(正信偈にも出てくる)善導大師の、「経教は鏡のごとし」お経や教えは鏡のようだ。と言う言葉がある。教えられることによって、自分のことが気付かされる。田有れば田を憂うように、思い通りにしようとすると、思い通りにならずに腹が立つ。

自分のことは見えないが、お互いに教えあうことはできる。「ゴミが付いているよ」と。支えあって生きる。

棒が一本では立たない、二本あれば・・・というが、人間は二人いれば世界が成り立つかといえばそうではない。六親眷属、あるいは職場の人間関係、人の間を生きる。

けれども、わがままをいってはいけないといっているのではありません。思い通りにならないのが人生ですといっているのでもありません。話が座談会のきっかけになればいいと思っています。(どうぞ愚痴を!)

第一回講義 終り。