『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

本願寺五代住職の綽如上人の御命日

明日の予定は月参りしかないのでもう少し本山で聞いたことを書く。

お朝事(晨朝参拝)の法話は太田浩史先生だった。ラッキー!4月24日は本願寺五代住職の綽如上人の祥月命日。

 

綽如上人は高岡教区の者にとっては親鸞聖人、蓮如上人に匹敵する大切な上人。(井波瑞泉寺の創建者。瑞泉寺は、明徳元年(1390年)に綽如上人によって創建)

父は本願寺四代善如上人。大伯父存覚上人(真宗木辺派)

深草圓福寺 浄土宗西山深草派 専修念仏の寺

綽如は学友(りゅうげい?)と二人で布教に出た。

三河 徳阿弥

専修念仏をすすめた。肉食妻帯。

徳阿弥 松平親氏(ちかうじ)  後に徳川と名のる 徳川家康

徳川家康 浄土宗 芝の増上寺 菩提寺。

綽如上人の時代 高田派、聖徳太子信仰。

父善如上人は存覚上人が亡くなったあと、息子綽如を住職に。綽如上人は本願寺の外に出て布教をしたはじめての方。

当時、越前高田、秘事法門。

高岡のじり(聖?) 杉谷きょうぜんが (時宗 踊念仏 盆踊りが残っている)

越前に綽如上人をたずね、越中(富山)にお呼びした。

当時綽如上人は、越中教化していた。その時、南北朝の戦いが厳しく、加えて中国の民の国から足利義満に国書が届いたが、難解で読めるものがない中、青蓮院門跡が「本願寺の綽如上人しか読めるものがいないだろう」とすすめたことにより、綽如上人が、民の国書を読み解き、返答も書く。

途中、綽如上人は土地を見る目があった。「この土地は繁栄するだろう」と目を付けた土地が水が枯れている土地だと聞き、共に歩いていた馬が止まった場所に、桜の木があり、木をつつくと、泉がわいたという地の伝承がある。

国書を読み解いたことにより、(功績を認めた後小松天皇より、「周圓上人」の号を賜わる。ウィキペディア)後小松天皇より「いすの御影」を賜る。(蓮如上人嫌うこと。)

越中(富山)に招かれた綽如上人は、井波瑞泉寺の創建する。

五箇山に三種の神器を持って立てこもっていた。しずめに行った綽如上人は切られて亡くなる。「犬切りの太刀」。南朝の人が綽如上人を北朝の犬と呼び、切った刀がそう呼ばれる。

その後、綽如上人の子どもたちが北陸を盛りたて、数年後に蓮如上人が京都で焼き撃ちなどにあい、それを頼って北陸に来ている。吉崎拠点に。

本願寺で初めて両堂形式を持ったのは瑞泉寺である。