現世利益和讃
今日は今年初めて「現世利益和讃」をつとめた。
月参りは阿弥陀経をあげることが多いのだけど、二人分お願いされることがある。
そんな時は正信偈を同朋奉賛式という勤め方にして、お気に入りの和讃をチョイスする。
<第十首>
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか
<第十一首>
天神地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり
<第十二首>
願力不思議の信心は
大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神
みなことごとくおそるなり
<第十三首>
南無阿弥陀仏をとなうれば
観音勢至はもろともに
恒沙塵数の菩薩と
かげのごとくに身にそえり
<第十四首>
無碍光仏のひかりには
無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく
真実信心をまもるなり
<第十五首>
南無阿弥陀仏をとなうれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまうなり
親鸞聖人の現世利益は、目の前のお願いがかなうことでなく、
他化(自在)天の大魔王に、天の神、地の祇に、十方無量の諸仏に
念仏の行者がまもられること。「護られる」なんだろうな。
それは、他化(自在)天や天神地祇が本尊ではないことなのだと思う。
目の前のお願いが本尊ではないことなのだと思う。
でもなんだか長い間この現世利益について私勘違いして来た気がする。「違うものに(たとえば占いとか)惑わされない」のがこの念仏の行者の現世利益だと思ってきたのだけど、やっぱりそれだとなんか違和感。きっと並べるものではないんだと思う。こっちがだめでこっちがよしではないんだ。
なんて言えないですと言ったらみんながっかりするかなぁ。
弥陀仏の本願念仏は、 邪見驕慢の悪衆生、
信楽を受持すること、はなはだもって難し。
難中の難、これに過ぎたるはなし。(「正信偈」)
ブログははじめたばっかりでもないんですけれども、機能がいまいちわからず理解しようと努力もせずすみません。☆ありがとうございます。私もみにいきます。