『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「御文五帖目一通」

1 末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。「御文五帖目一通」

 

三回繰り返しています。

一、こころをひとつにして、(阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、)

二、さらに余のかたへこころをふらず、

三、一心一向に、(仏たすけたまえともうさん衆生)

 

念仏一つがすくいである、念仏一つがすくいになることがいかに難しいか、ということなのだろう。

生きることが罪業深重であるということは、少しく立ち止れば子どもだってうなづけることである。しかし、平野先生がいいきられているように、「我が力で我が身をたすけていくということは原理的に不可能である」ことが、なかなか生きれない。弥陀をたのめない。けれどももう一度留まって思うに、そこに私を立てるからこそ苦しむのではないか。「私の考え」で苦しんでいるのではないか。

いいかえると私の力では間に合わないところを生きていることに出遇うのがすくい、ということになるだろう。「すくい」とはベタというか、コアな課題である。ふぅ。