お散歩道草 osanpomichikusa 

-続迷林遊林航海記

金の鎖とはなにか

親鸞聖人は正像末和讃で、弥陀の本願を信ずることができない仏智疑惑の人をしつこく言葉にしている。この「仏智疑惑和讃」とも呼ばれるご和讃は23首あり、このご和讃の最後は、
仏智うたがうつみふかし 
この心おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃 仏智疑惑和讃23)
「已上二十三首仏(智)不思議の弥陀の御ちかいをうたがうつみとがをしらせんとあらわせるなり
         愚禿善信作」
と、書かれている。愚禿の名乗りは、自らの仏智疑惑を慙愧する言葉なのだと思う。

思い入れの深い和讃はたくさんあるけれども、「金鎖」、「金の鎖」という言葉が気になった。但し、真宗聖典では「金鏁」と書かれているのでスルーしてしまうこともある。同じ聖典でも「教行信証」では「金鎖」。

転輪王の王子の
 皇(おう)につみをうるゆえに
 金鏁(こんさ)をもちてつなぎつつ
 牢獄にいるがごとくなり(正像末和讃5)

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがうつみのふかきゆえ
 七宝の獄にぞいましむる(正像末和讃6)

 

ここのところを「教行信証」では、
顕浄土方便化身土文類六 本(教行信証・化身土 本)
【胎化得失の文】
また言わく、それ胎生の者は処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのその中にしてもろもろの快楽を受くること、忉利天上のごとし。またみな自然なり。その時に慈氏菩薩、仏に白して言さく、世尊、何の因・何の縁あってか、かの国の人民、胎生・化生なる、と。仏、慈氏に告げたまわく、もし衆生ありて、疑惑心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず。このゆえにかの国土にはこれを胎生という。乃至 
弥勒、当に知るべし。かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに。その胎生の者は、みな智慧なきなり。乃至 
仏、弥勒に告げたまわく、たとえば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あらん。種種に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなわちかの獄の中に内れて、繫ぐに金鎖をもってせん。乃至
仏、弥勒に告げたまわく、このもろもろの衆生またかくのごとし。仏智を疑惑するをもってのゆえに、かの胎宮に生まれん。乃至 
もしこの衆生、その本の罪を識りて、深く自ら悔責して、かの処を離るることを求めん。乃至 
弥勒、当に知るべし。それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす。已上抄出 (化身土328p)

 

教行信証」は文類だから、聖人が大事だと思ったところが集められている。あ、コピペと近いと思う。だから、親鸞聖人が「已上抄出」と書かれている所や中略の「乃至」には、意味がある。他の文章は中略できないのである。

と、藤場先生に教わった。『教行信証』は長いからびびるけれど、部分的に楽しめばいい。私は「金鎖」が気になるので、『大経』の聖人が略したところも見たい。

 

仏説無量寿経巻下
「その胎生の者の処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのその中にしてもろもろの快楽を受くること、忉利天上のごとし。またみな自然なり」と。
    その時に慈氏菩薩、仏に白して言さく、「世尊、何の因、何の縁なれば、かの国の人民、胎生化生なる」と。   仏、慈氏に告げたまわく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるに猶し罪福を信じ善本を修習してその国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて寿五百歳、常に仏を見たてまつらず。経法を聞かず。菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆえにかの国土においてこれを胎生と謂う。
    もし衆生ありて、明らかに仏智、乃至、勝智を信じて、もろもろの功徳を作して信心回向せん。このもろもろの衆生、七宝華の中において自然に化生せん。跏趺して坐せん。須臾の頃に身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
 また次に慈氏、他方仏国のもろもろの大菩薩、発心して無量寿仏を見たてまつり、およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲わん。かの菩薩等、命終して無量寿国の七宝華の中に生まるることを得て自然に化生せん。   弥勒、当に知るべし。かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに、その胎生の者はみな智慧なし。五百歳の中にして常に仏を見たてまつらず。経法を聞かず。菩薩・もろもろの声聞衆を見ず。仏を供養せんに由なし。菩薩の法式を知らず。功徳を修習することを得ず。当に知るべし、この人、宿世の時に智慧あることなくして疑惑せしが致すところなるなり。」
 仏、弥勒に告げたまわく、「たとえば転輪聖王に別に七宝の宮室ありて、種種に荘厳し床帳を張設して、もろもろの繒幡を懸けたらんがごとし。もしもろもろの小王子ありて罪を王に得れば、すなわちかの宮中に内れて繫ぐに金鎖をもってせん。飲食・衣服・床褥・華香・妓楽を供給せんこと、転輪王のごとくして乏少するところなけん。意において云何ぞ。このもろもろの王子、むしろかの処を楽いてんや、いなや」と。対えて曰さく、「いななり。但種種の方便をしてもろもろの大力を求めて自ら免出せんと欲う」と。仏、弥勒に告げたまわく、「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもってのゆえに、かの宮殿に生まれて、刑罰、乃至、一念の悪事あることなし。但し五百歳の中において三宝を見たてまつらず。もろもろの善本を供養し修することを得ず。これをもって苦とす。余の楽しみありといえども、猶しかの処を楽わず。もしこの衆生、その本の罪を識りて深く自ら悔責してかの処を離れんと求めば、すなわち意のごとくなることを得て、無量寿仏の所に往詣して恭敬供養せん。また遍く無量無数の諸余の仏の所に至ることを得て、もろもろの功徳を修せん。弥勒、当に知るべし。それ菩薩ありて疑惑を生ずる者は大利を失すとす。このゆえに応当に明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし」と。(p.082)

コピペ:愛用 聖教電子化研究会 http://www.icho.gr.jp/seiten/

「おたく」だって? 光栄です。先日聞いた言葉、あれはこの大経下巻なんだろうな。ピンと来なくて本当に恥ずかしい、「おたく」返上だ。

 

お経に、自分の願いを全部叶えた牢屋のお話が書かれているのだそうです。
おいしいものが食べきれないほどあって、欲しいものは何でも手に入って、布団はフカフカで、美しい装飾でちりばめられ、すばらしいオーケストラの曲が聞きたい時にいつでも聞ける、ただ金の鎖に繋がれている。

これは私たちの願っている世界を実現させたすがたです。無いうちはまだいきいきと「それを手に入れれば」と思う。戦後の日本はそうだっていったのではないでしょうか。

お経には、人間の欲が全て満たされた時、「出してくれ」というのだと。
私たちはねがいが満たされることによって満足すると思ってきたが、
本当のねがいはそうではなかった。
そのことを無明、無知という。
本当にねがっていることがわかっていないことがつきつけられる。
あれさえあればと思っているうちは麻痺してそのことが分からない。
(3/26 真宗大谷派 金沢災害支援ネットワーク公開講座「人間を生きる」於金沢真宗会館)