『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

犬と着物と犬と

柴犬梵天そろそろ5カ月。人間で言うと8歳くらい、まだ小学生です。

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久しぶりにログインした。

今日は久しぶりに法話。朝から原稿を作った、というか本当は昨夜22時くらいから重い腰を上げたが寝た。犬が来てから夜更かししなくなったのである。

そして早起きするようになった。私たちは朝起きてトイレにいくが、犬も同じで、その朝いちのおしっこを外でさせようと早起きするようになったのである。幸いうちの梵天は飼い主に似て低血圧なのか朝食後はだらーっと寝ていることが多い。

ので、原稿を8時すぎに仕上げた。よかった。

今日お話しすること一部分↓

「仏法は、聴聞にきわまることなり」という蓮如さんの言葉がありますが、
この法座に集う方々が耳が肥えてらっしゃるやろうなと、恐縮していまして、以前からお話してみませんかとお誘いがあったのですが、何回も断るががひどなって、今日みなさんの胸を借りてこの場にたたせていただくことになります。へたくそですが、よろしくお願いします。
実はこの場に立たせていただくことが、気が重くてしょうがない。
聞いてくださる皆さんが耳が肥えているというのは、この場所に限らない、
ではなぜ辛いかというと、坊守さんにも住職さんにも息子さんにも
そして、前住職さんにも、私も、うちの寺も、
本当に良くしていただいてきたということがありまして、願いをかけていただいてきた。その願いに私はこたえられていない、自堕落な日々を生きておりまして、お話する機会の度に、何にむかって、何のために生きているのか、
私が何を話することがあるか、考える度に不安にさいなまれます。
「仏法は、聴聞にきわまることなり」
という言葉は逆に自分をさばく言葉になり
最近どこに聞きにいったかな、なんも聞きにいっとらん、だらなもんや
とこういうことになりまして、こんな聞き方しとったらだめやね。

最近着物に目覚めまして月忌参りに行くときもお友達とお食事へ行くときも
着物を着ることが多くなってきました。私の部屋にはおばあちゃんのタンスがありましてばあちゃんの遺したものが使えることがうれしくて、縫い上げをほどきながら「誰かがいつか着るかもしれない」という愛情を感じています。
着物はよく針を使うものですが、月曜に親指をちくんと刺してしまいました。
それだけのはずが、その日は犬に風呂をいれてやったのが悪かったか、ごっつぉを作ったのが悪かったか、親指はパンパンに腫れてきまして、針刺しただけなんに、いつまでもいたて着物着るがもやっとになって、木曜に人に指先穴開けてもろて、そしたらそこから毛みたいなものが出て来まして、出したら治ってきましたが、自分を傷つけることというのは、これに似ていませんか。
だめやとか、だらやとか思うことはちょくちょくある。
けれども毛一本でも異物が入ったり目に見えなくともばい菌が入ったりすると、
その傷は腫れたりうんだりしてなかなか癒えない。
悲しみは積み重なると大きな負の力を持つようにもなりそうです。
みなさん思い当たりませんか。
自分がそうだとわかったら傍らの人の苦しみにも耳を傾けられますかね。
自分の悩みや悲しみを軽く考えてはいけませんよ、
とある方に言われたことがありました。
人は喜びよりも悲しみを共有することができる。

祠堂経というのは、悲しみを縁にしていると私は思っています。
大切な人と死に別れたご縁でお寺にご縁ができた。
教えに会ってほしいという願いをかけられて私たちはここに集うている。