『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

煩悩の河に教えの筏をうかべて

注文していた本が届いてちょっと上機嫌。三日坊主な私にも手に取りやすい本です。釈尊の言葉、原典をあたればよいのだけど手抜きして本から拝借、

煩悩の河に教えの筏をうかべて 『大般涅槃経

川より河は大きくて広いイメージ。煩悩というと他人事?いえいえ私の思いすべて煩悩を離れることなんてないのが仏教の教え。

そこに教えの筏(いかだ)をうかべるという。筏なんて、なんともちっこくて頼りないけれども、しっかり浮かんでいるのです。

おいおい、筏をちっぽけだと笑うなかれ。お釈迦様の当時は何カ月も海の上で滞在できるような大型豪華客船なんてないんだから。

さて、しっかり浮かんでいるのが、

「たすけてくれ!という者を必ずたすける仏(阿弥陀仏)さまの約束。」という筏です。蓮如さんのお手紙の言葉だと、「御たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚ならじとちかいまします弥陀、(の誓願)」。この誓いを建て、そして誓いが成就して阿弥陀仏となりたまえり。だから「たすけてくれ!」って人は一人ももらさずすくわれるのです。言っときますがなんの道具もいりません。高価な数珠も水晶玉も、もしかしたら木像だっていらないのかも。念仏一つなのですから。

余談ですが、だからといって、お木像をないがしろにする考え方には同調できません。自分が大切に思えなくて手を掌わせることができないのはそれぞれで別にいいのですが、手を掌わしている方に失礼です。

ほら、たよりないでしょう!だから難信という。信じがたい。藤場俊基先生の小冊子「なぜ南無阿弥陀仏なのか」に、浄土真宗の教えは難しいという人がある。ところが難教と言う言葉はない。どんな教えか、唯念仏、これ一つ。難しいことはない。ところが、難信なんだと、念仏一つがすくいだと信ずることが難しいのだ。という内容のことが書かれていて、うなずいた。

そもそも、男子も女人も、罪のふかからん輩は、諸仏の悲願をたのみても、いまの時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては中々かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申し奉るは、諸仏にすぐれて、十悪五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり。この仏をふかくたのみて、一念、御たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚ならじとちかいまします弥陀なれば、我等が極楽に往生せん事は、更にうたがいなし。

蓮如上人『御文』五帖目四通 

4月なので、月参りは五帖目四通をいただいている。ようやく、大事だと気になっていたがいまいち言葉が繋がらなかったことが形になってきた。月参りありがとう。蓮如さんありがとう。 

仏のことば一日一話―生きる力が湧いてくる! (PHPハンドブック)