『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

衆生にかけられた大悲は無倦である 広瀬杲先生

先日能登教務所で法話するご縁をいただいた。法話の後に質疑応答時間があって、聞法に来られた方が、以前ブログを書かれていて、とてもよかったのに、止められてしまって、残念だ、また書いてほしい。という内容のことを声をかけてくださった。とても驚いたけど、うれしくて舞い上がってしまった。こっそりここで書いてます。

講題:「如来の大悲はものうきことなく 常にわたしを照らしてくださる」
調子の良い時は気がつかないけれども、都合の悪い自分では自分を生きることができないような思いをすることがあります。正信偈の「大悲無倦常照我」という親鸞聖人のことばに感激します。

さて、講題を考えてくださいということで、提出期限の日が祠堂経法話の真っ最中で、その時考えていたことを講題にしました。
「大悲無倦常照我」 
如来の大悲はものうきことなく 常にわたしを照らしてくださる
という言葉、表現をかえると、ある先生(廣瀬杲先生)は、
衆生にかけられた大悲は無倦である
と、おっしゃっておられました。

耳慣れた言葉なんですけれども、はっとしましてね、
如来の大悲は「衆生にかけられている」
衆生というのは生きとし生けるもの、私や皆さんのことです。
私たちは互いに如来さまに悲しまれ、願われ、呼びかけられるものです。
大悲 ものうきことなく 我を照らしたもう
という言葉の前に、衆生にかけられた 如来の大悲は ということがある、ものうきことなく 常にわたしを照らしてくださる
無倦というのは、これこれこんなものはよいけど、そうでないものはだめや、といわないということです。
如来(阿弥陀仏)の大悲は、私が、私自身を、嫌になって、みはなして、否定して、自分を生きることを止めたくなる時も、
いつも私を照らす。私がいい時も悪い時も。みなさんにとってもそうです。