『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

第37回北陸連区差別問題研修会要項

先日能登教区同朋社会推進協議会主催の北陸連区差別問題研修会(能登、金沢、小松、大聖寺、福井、高岡、富山の七地区合同)が和倉温泉にて開催された。報告を書かなくてはならなくて、要項を読み直したが、要項からぶれない研修会だった。主催の能登教区同朋社会推進協議会では、8年この問題に取り組んでいる。

 

第37回北陸連区差別問題研修会 要項
テーマ:下寺(したでら)制度の歴史に見える内なる差別問題
~見過ごし、あきらめ、他人事にすることで温存してきたもの~
 我々の宗門は、部落差別問題に対する厳しい糾弾をきっかけに、その差別的体質を問い、反省してきました。その過程で、当然気付くはずであった「下寺問題」を、大谷は内部の差別問題であったために、問うことなく見過ごしてきました。
 「下寺問題」と聞いて、もしかるすと、それは「他所(よそ)のこと」、「過去のこと」と考える方もおられるかもしれません。そういう考え方は、部落差別問題を学ぶ中でもしばしば聞きますが、それは間違いです。なぜなら、我々の住む北陸はもちろんのこと、他の教国も下寺は現に多く存在しているからです。
上寺(うわでら)は下寺を隷属させ、さまざまなことについて制限し、命令し、強要してきました。それは今でも続いています。
 上寺と下寺とでは、着る法衣や座る場所に差別があります。それは、上寺の人と下寺の人が婚姻しない、血をまじわらせないで来たことと同様に、身分の違いを誇示し、維持するためのものなのでしょう。
 また、上寺の人として下寺の人を呼び捨てにすることに、「下寺問題」が端的に現れます。決して上寺の人は社会的常識を欠いた横柄な人ではありません。ごく普通の言葉遣いをする人が、上寺の人として下寺の人に対した時、呼び捨てにし、言葉遣いも違っています。周囲の寺の人や門徒の人たちが、同じように下寺の人を呼び捨てにする場面に遭遇することがあります。そこに差別構造の根深さを見ることができます。
 そういう「下寺問題」と根を一つにした、差別性を持つ制度や儀式を、我々は受け継ぎ、維持し、日々執り行っています。
このような現状にある宗門に身を置く我々にとって、「下寺問題」は決して他人事ではありません。門徒の方々にも、この「下寺問題」について是非考えていただきたいです。
 「下寺問題」は、「共に歩むべき同朋を差別する。同朋が差別されている現場を見ても何も感じない。見て見ぬふりをする。それであなたは念仏者と言えるのか・・・」そう問われる問題です。
 “「下寺問題」と向き合うことなく歩んできた同朋会運動50年”とは、そして“「下寺問題」を棚上げにした同朋社会の顕現”とは、次の一歩を踏み出すためには、改めて問い直さなければならない課題です。
我々の教団が、僧侶・門徒を問わず、どうしたら念仏の僧伽になるのか。そして我々はどうしたら同朋社会の顕現に向かって歩むことができるのか。「下寺問題」を通して、共に考えたいと願っています。

(文責:能登教区同朋社会推進協議会)

 

差別問題研修会でよく聞く「聞いたものの責任」という言葉。「下寺問題」について問題意識が無かったわけではないのだが、自分がこれからどうしていくのかつきつけられる。だから書けずにいる。研修会でお友だちになった彼と、お休みしながら、寄り道しながら、疲れたらサボろうと言葉をかけあった。