『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

浮生なる相をつらつら観ずるに

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。   蓮如上人『御文五帖目16通』より

出さなかったメール
いつもありがとうございます。遅くなってすみません。北陸連区差別問題研修会報告書送りました。
ずっと悩んで悪夢をみることもしばしばありました。
この前のシンさんの時から目まいが続いていて医者かよいです。笑
担当さんが解放運動卒業したら(転勤になったら)、私も(委員を)卒業したいわ
と、朝から愚痴っていたところでした。
書いたから悪夢も目まいも止まるかなぁ    合掌


怖い夢ってのは内容を鮮明に覚えていなくても足に恐怖感が残る。
目を背けてきた来たのは、受け継いで日々執り行っている儀式への問題意識。そして自分の差別心。
具体的に書けないが、昨年ブログが止まったのは、このことと根を一つにしている自覚がある。講義の中で「下寺問題」は教団が根底から覆される問題であるというような言葉があったが、だから目がまわって足元がふらふらするのか。だって受け継いだきたもののためにがんばって立ってるつもりだったし。
自身を浮草だという人間感があるが、私もそうだと、考えたら怖くて怖くていてもたってもいられなかったことがある。
「立っていない」ことを知らされるのは苦しいことなのだと思う。
 やっていることに意義を感じることができずにやるのも辛い。だからひとつひとつ意義を探して聞いて時に伝えて来たけれど、
虚しさを押し込んで。親鸞聖人は喜ぶまい、と感じながら。
今朝、五日間の祠堂経法話の依頼があったが勘弁してもらった。今の私には無理だ。法話を断るなんて偉くなったのか?いや、おじけづいたか、いじけているのかのどちらかだろう。
なんだか目まいは止まりそうにない。

蓮如上人のお手紙である「御文」の五帖目16通は、荼毘にふした後の還骨勤行時に読まれる「白骨」の御文。この言葉は蓮如さんの専売特許でなくて、その時代に流行っていた感覚というか、どなたかずいぶん偉い方の言葉だったと聞いた。(追記:後鳥羽上皇でした。『真宗門徒の証明』04 ←なんだか竹中先生の言葉みたいと思ったら当たりでした。)

人間の浮生(水草のような、地に足つかないもの水に浮いているもの)を死に別れるという大事な儀式の中で何度も教えられてきたのかもしれない。