『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「花鳥風月」に罪悪感

本願寺八代の蓮如上人のお手紙『御文』に、「花鳥風月」あるいは「栄花栄耀」が書かれているものがあります。
結論から言うと、私のように、そればかりになることを戒めた言葉なんだろうと思います。もうひとつ結論を言うと、まあこの結論はかえってぼやけるかもしれませんが「念仏ひとつである」と。


どちらも四帖目ですから、蓮如上人が歳をとってからのお手紙で、(明応七年十一月二十一日に書かれた)四帖目十五通「大坂建立」は、真筆では最後の御文で、遺言といわれることもある。(蓮如上人は明応八年(一四九九)三月二十五日命終、寿算85歳)


四帖目四通は、私が行っているお講で毎度読む。
これはちょっと説明がいることなのだけど、お講にはそれぞれご本山からいただいた「御消息」や「御文」がある。(もっと詳しい方がおられるのだけど)お講が次々にできたような時代は、その時の本願寺門主からお手紙「御消息」が下附(かふ)される。それが蓮如上人の「御文」のこともある。
で、私の行っているお講は、元尼お講で、おやじお講や、若い衆のお講もあったのだけど、今は一つだけになって「在所お講」になったと。(間違ってはいないでしょうが、説明は下手です。すみません。)


なにがいいたかったかというか、四帖目四通は、馴染みのある御文なんである。普通は、と言うとおかしいけれど、五帖目が大事な御文がまとめられていて、一帖目から四帖目は年代順に並んでいる。ゆえに五帖目が馴染みが深い。(帖と言うのは冊みたい感じで、お手紙がノート五冊になってる感じ。)

 

ようやく書きたいことが書ける。四帖目四通には、

4 それ、秋もさり春もさりて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえず、しらざりき。

 

(さて、秋もさり春もさって、年月を送り、昨日も過ぎ、今日も過ぎ行きます。いつの間に老いの歳を重ねたのでしょうか、何とも気付かず暮らしてきました。)

 

しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじわりつらん。また歓楽苦痛の悲喜にもあいはんべりつらんなれども、いまにそれともおもいいだすこととては、ひとつもなし。

 

(それでもその間には、あるいは花鳥風月を愛でて楽しんだこともあったでしょうし、また病の苦痛に一喜一憂したこともあったでしょう。ですが、今においてそれと思い出すことは、何一つとしてありません。)

 

15 そもそも当国摂州東成郡、生玉の庄内、大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋、下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の歳霜をへたりき。これすなわち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。


((略)この大阪には以前よりどんな約束があったのでしょうか、(略)はじめてほんの少しこの土地を見たことに始まって、この通りの一宇の坊舎を建立いたし、早くも当年でもう三年の年月を送りました。これもすなわち、たいそう昔からの因縁が浅くはないからだと思っております。)


それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすくすごし、栄花栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あわれ、無上菩提のためには、信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をももうさんともがらも、出来せしむるようにもあれかしとおもう一念のこころざしをはこぶばかりなり。


(ついては、この土地に暮らしている理由は何かといえば、何も強いて一生涯を安穏(あんのん)に過ごし、富や力にまかせた贅沢な暮しを好み(「栄花栄耀」)、花鳥風月を愛でて楽しむためはではありません。ああどうかこの上ない菩提のためには信心を決定(けつじょう)する行者(ぎょうじゃ)も増え、念仏申す人々も出て来て欲しいとねがうばかりなのです。)

参考:「現代の聖典 蓮如五帖御文法蔵館


いずれにしても、「花鳥風月っている場合でないよ」、という言葉だと学ぶ気がしています。でも、そうではなくて、という見方もあります。何百年も昔の言葉を繰り返しいただいている教団なのですから。


花鳥風月を探していると、四字熟語のHPに

【風雲月露】(ふううんげつろ)世間の人の修養には何の役にも立たない花鳥風月ばかり詠じた詩文。
参考:http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/kotobasyu/jyukugoyu_4_4.htm


と書かれていた。これって、花鳥風月が修養には何の役にも立たないと考えている人に問題があるのではないかと、思えてきたよ。どうだろう。田舎に花を植えていない家は無い。修養の為でなく、花鳥風月はいのちのすがただと私は思う。
ただ、とても愛しいもので、そればかりになることを戒めたのだろうと。
安田理深師の言葉がまた頭をよぎる

私たちはもっともっと悩まねばなりません。人類のさまざまな問題が私たちに圧(の)しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできない。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。

安田理深

 

やっぱり花鳥風月に罪悪感。

 

 

追記:

ありがとうございます。書いてもいいんだ、と深く安心しました。前のブログは訪れてくれる方が同業者の方ばかりだったし、自分がお話させていただく場では、年配の方に胸を借りているばかりなので、とても、今日の☆はとても貴重です。そして劣等感でいっぱいの自分に勇気をいただきました。本当にありがとうございます。たしかに、両方受け入れられたらいいですね。善悪の物差しは自分が振り回しているだけなのだから。