「そもそも一つの灯りを灯そうとする心はいかなるものか」
万燈会の法話に向けて、昨日は図書館へ行ったのであった。
親鸞聖人の墓所、京都「大谷祖廟」では、万灯会(まんとうえ)についてこう書かれている。
東大谷万灯会は、夏の暑い時期、涼しい夜間にもお盆参りができるよう、境内に参拝者の足元を照らす提灯を灯したことから始まりました。その後も、参拝される方々が亡き人を縁として、あらためて親鸞聖人が顕らかにしてくださった本願念仏の教えに出遇う場となることを願いとして、開催しています。(「大谷祖廟」HPより)
万燈会を縁として念仏の教えをいただく場となればいいのだろうなと思う。
で、話すのが私なのだから、プレッシャーがかかるのではあるが、
図書館で手にした本にこう書かれていた。
法話と言うと、信仰とは何か、阿弥陀仏の教えとは何かというふうに、どうしても説教くさくなりがちですが、親鸞は「わたしはどう考えるか」「わたしはどう思うか」という語り口に終始して、けっして説教くさくありません。そこに親鸞の人間的な魅力がありますし、私たちに「ではあなたはどう考えますか」というメッセージを発しています。
私は子どものころ、寝ながら「南無阿弥陀仏」ととなえると、不思議なことに心も体も落ちついたものでした。自分の身を大きなものに明け渡す感覚が得られるからだと思います。念仏をとなえることは息を吐きつづけることでもありますから、吐く息が中心の呼吸法になることで心身がおちつくという効果があるのです。
「南無阿弥陀仏」がひらがなの「なむあみだぶつ」(「なもあみだぶつ」とも)になり、「なむあみだ」になり、「なんまいだ」になった変化をみればわかるように、心をマッサージしてやすらかにする音感が求められていたことがわかります。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、祈りというより感謝の念仏です。「ああ、ありがたい」と日ごろのごくあたりまえのことに感謝する言葉が口をついて出てくる。念仏というやさしい行(ぎょう)であるからこそ、日々の暮らしの中で、すっと出てくる精神の技になりえたのだと思います。
精神の技というと、難しく聞こえるかもしれませんが、こころの健康法あるいは心の常備薬と言えばいいのでしょうか。念仏は阿弥陀仏という名医が私たちの迷い惑う心を見るに見かねて、救いたいと願って処方してくれた特効薬です。
親鸞の言葉は、どの言葉も似ているにかんじるかもしれませんが、それは親鸞の言葉がつねに核心をめぐる一貫した思想だからです。通して読むと、心が染め物になったかのようにしみこんできます。
声に出してこそ親鸞なのです。
斎藤先生が、「声に出して読みたい」親鸞聖人の名言集、楽しめます。
それで、万燈会で何を話すのかって?
『声に出して読みたい親鸞』より
61 煩悩の泥の中に在て仏の正覚の華を生ずる
高原の陸地に蓮を生ぜず
卑湿淤泥に蓮華を生ず
これは凡夫、煩悩の泥の中に在て(ありて)、仏の正覚の華を生ずるに喩(たと)うるなり
汚泥(おでい)の華は 経に説く/高原陸地に さかずして/卑湿の泥土に 生ずる、と/これ煩悩の 泥にさく/さとりの華に たとうなり (『入出二門偈』石田瑞麿訳)
この本は石田瑞麿師の訳を用いている。石田瑞麿師の訳は気にいってずいぶん読んだ。東本願寺が訳をだしたのはほんの最近だし。
「蓮始開(はすはじめてひらく)」のは7月の半ばのはずだったけど、今満開のようですから、得意ネタでやることにします。よし、原稿60%出来た。