『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

お盆に思うこと

金沢の方は7月のお盆のところもあるようですが、私の地域は8月盆のところが多いです。お盆と言うと、お坊さんは墓参りで忙しそうですが、当寺はおじいちゃんがあちこちでお話をさせていただく説教者だったので(お寺の仕事やお説教で生計を立ていた)、お盆の時期は、365日法話がある東本願寺へ行っていました。他の方は自分のお寺がお盆で忙しくてご本山へ行っていられなかったのかもしれません。
そんなこともあって、毎年、お盆のお墓参りをお願いされることはほとんどありません。

私は若い時に僧侶になったものですから、考え方が乱暴な時が多々あります。

『声に出して読みたい親鸞』より
12 みなもって世々生々の父母兄弟なり。
父母の孝養(こうよう)のためとて、一辺(いっぺん)にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。

 

亡き父や母の追善供養(ついぜんくよう)のために、一度でも念仏したことはありません。というのは、生きとし生けるものはすべて、遠い過去から今までのいずれかの世で、何度となく生まれ変わり死に変わりするあいだに、ときに父母となり、ときに兄弟姉妹となってきたからです。(歎異抄)

亡き父や母の供養の為に念仏申したりお経をあげたりするのはおかしい、先祖を拝むのはおかしいんだ、と。
でも、それも何だかおかしな話だと、41歳を過ぎて思えるようになってきました。親鸞聖人がおっしゃった「父母の孝養(こうよう)のためとて、一辺(いっぺん)にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」という言葉は、念仏申すことをなにも否定している言葉でなく、自分の家族ばかりを大切に思うことが問題だといっている気がしてならない。けれどもそれは、先立った親や祖父母、私の先祖に手を合わせてこそ思うことができるのではないかと、ご先祖に手を合わせることが自分のいのちを生きざまを考えるきっかけになるのではないかと思うのです。

 

余談ですが、「遠い過去から今までのいずれかの世で、何度となく生まれ変わり死に変わりする」という「輪廻」の感覚は仏教、あるいは、鎌倉時代では普通だったんではないかなぁ。

申し訳ないけど、「(あなたの)前世が~だから、~しなさい」みたいな話は大嫌いですが。

おじいちゃんはよく「迷いおさめの生(しょう)」といっていた。何度となく生まれ変わり死に変わりしてきたけれども、念仏の教えに出会った今生(こんじょう)を、迷いおさめの(もう、迷って生まれ変わり死に変わりしない)生を生きると。

 

どうでもよいことだけど、実は迷林、(先生たちには叱られるかもしれませんが)前世はカエルだったんだろうなぁ。ヘビが怖くてすくんでしまう。庭のマムシを怖がらないめいちゃんを見て思っております。ヘビは怖いのですぐ見つけます。ぱっと見て、なにかわかります。シマヘビにアオダイショウにヤマカガシ、とうとう庭にマムシが出現しました。「めいちゃん、マムシがいたよ、怖いから見てきて。」とお願いした。「めいちゃん、マムシだったでしょ、どうしてわかった?」「うん、模様と大きさ!」と、彼女は言った。マムシはウン○みたいな姿で一日中池にいた。ぞっとする。

 

声に出して読みたい親鸞

声に出して読みたい親鸞