『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

独りということ。

人、世間の愛欲の中にありて、独(ひと)り生じ独り死し独り去り独り来りて、行(ぎょう)に当(あた)り苦楽の地に至り趣(おもむ)く。身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代(か)わる者なし。『無量寿経(下巻)』真宗聖典60p

f:id:meirin41:20150926162206j:plain

親鸞聖人は、仏陀釈尊の説かれたたくさんお経がある中で、「正依の経典」(しょえのきょうてん)―正しい教え、(私が)拠り所にするお経(教え)として、大切にされた3つのお経の一つが、仏説無量寿経(大経)です。

宗旨 | 東本願寺

 

ですから、大経の言葉は、大経は上下あって長いのだけど、いろんな先生・先輩・仲間のお話を聞くご縁の中で度々耳に残ることがあります。

浄土真宗東本願寺派 本弘寺 住職の法話

 

独去独来(どっこどくらい)

無有代者(むうだいしゃ)

漢字はいろんな音で読むので違う読み方もあるでしょうが、私はこの「どっこどくらい、むうたいしゃ」という音で覚えています。

 

ひとり生まれ、ひとり死に、

ひとり去り、ひとり来る

いろいろ聞いてきたし、書かれているものがあるけれど、「ひとり去り、ひとり来る」というのは、(他者が)ひとり去り、ひとり来るのではないかと思います。だって、「世間の愛欲の中にありて」なのだから。そんな出会いの中で、苦楽を生きているということだと思う。

どんな時もいつもひとり。それは、誰にも代わることのできないわたしを今いきているから。そしてそれは他者にとっても同じこと。人間関係はいろいろ迷ったり悩んだり間違えたりの繰り返しだけど、いきいきとひとりを生きれたらいいなと思います。

  

同じような言葉に

犀の角のようにただ独り歩め「スッタニパータ」

があると思っていましたが、検索してみると、

参考:

www.magonochikara.com

鶴見俊輔さんの著書『かくれ仏教』を紹介されています。

 

中村(元)先生の語註にも次のようにあります。

「『犀の角のごとく』というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずさわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮すようにせよ、の意である」と。(上記HPより)

 

ところが鶴見さんが読んだ本には別のことが書いてあって、「そうだ」と思ったというのです。

鶴見さんは、インド人の宗教学者、アーナンダ―・クーマラスワミーさんの『ブッダ伝』を読んでいて感銘を受けたそうです。その感銘のひとつに「犀のように一人で歩め walk alone like a rhinoceros」という言葉があった、と書いています。話は次のようなことです。

アフリカ犀の角は二本だがインド犀の角は一本。その角は肉の塊だからそれほど硬くない。それで闘争の武器にはならない。だからか、あまり闘わない。「だが、体はでかいから、ほかからつっかかってこない。孤独のままずっと一人でのこのこ密林を歩いている。二五〇〇年前には、いまと違ってインドの森の中にたくさんいて孤独の歩みを続けていたらしい。それを釈迦牟尼は見ることがあって、ああいう風に生きるのがいいというイメージを持ったんだ。」(16頁)(上記HPより)

 

のっしのっしと孤独に非戦闘的に歩み続けていきたいと思うのだけど、現実はキャタピラーみたいにいろんなものを踏みつぶして生きているように思う。

 

f:id:meirin41:20150813102508j:plain

鳥の声さえぎる休耕田の田んぼの整備、心が痛い