『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

北陸連区坊守研修会in「あえの風」に参加しました その2

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そっかー、最近聞法しても真面目にアップすることなかったなぁ。
なんか10月の法話のプレッシャーがありがたいような。
今回偶然、ある坊守さんが「以前、○○寺さんの大谷婦人会の法会の時にお話聞かせていただいて、ありがとうございました。」と、丁寧に声をかけてもらった。当然恥ずかしかったけれども、うん、うれしかった。一回一回一生懸命にこれからもがんばらなくては。とにかく、てばっているけれども、散歩もあるし、できたところまで


北陸連区坊守研修会 

テーマ:現在(いま)を生きる 寺をひらく 私をひらく
~ いま、私はどう生きる? ~
講題「浄土を生きる娑婆を生きる」
講師 沼 秋香(しょうこう)氏

前回のつづき


 
・先輩が身を削って大切な言葉を残してくれた

往生は心にあり
成仏は身にあり (曽我量深)

 

(往生=成仏)往生は身にあり ということでは、死なないと往生しない(未来に成仏、往生)ということだが、「往生は心にあり」 ということは、心は(現在)浄土にあるということ。
その根拠が釈尊の言葉でいうところの
大経十八願の「本願成就の文」(聖典44頁)

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念。
至心回向。
願生彼国 即得往生 住不退転
唯除五逆 誹謗正法

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。

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この世は迷いの世界(娑婆)。この娑婆に往生を得(う)るということは、どういうことかというと、往生が成り立つということが、どうすればいいかというと、

彼(か)の国(阿弥陀仏の浄土)に、生まれたいと願ずる。願い。
願いに繋がるには、至心回向ということがある。

親鸞聖人は、我々が回向するのではなく、仏の方から我々に与えられた回向によって願生する。願が生ずる。

願生ということは、至心回向(如来の回向)を感ずる。親鸞聖人は、ここにマルをつけて、区切る。切ってよむ

そこに信心歓喜がなければ、念ということない。
聞其名号(もんごみょうごう・その名号を聞きて)ということが、なければ願生ということもない。
よって願生(浄土に生まれたいと願う)は他力の回向によるもの
向けるためには信心
信心を向けるということ聞其名号(もんごみょうごう)
他力の回向を感ずる時、仏の浄土に生まれたいという願いが起こる


(ここは沼氏の口調が早くて書きとれなかった。後の座談会で、私同様数名の坊守がゆっくり言ってほしかった、もう一度聞きたかったという声があった。「本願成就の文」は沼氏にとってはあたりまえのことなのでしょうが、勉強不足の私は(この書きとったことをアップした文章にも自信が無いし)繰り返しでいいから聞きたかった、同じように思っている方もいることを伝えたいと思う。坊守会にもいろんな人がいる。難しい言葉だから聞きたくないと思う方もいるだろうけど、そればかりでもない。連区坊守会研修会は皆真宗聖典を携行している。)

 

念じてからしばらくたつと往生でない
願生即得往生
そのことがたやすくうけとれるよう「大経」「観経」「阿弥陀経」という三経がある。
無量寿経(「大経」)』が念仏の信の要(かなめ)

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親鸞聖人は

信心の人は その心 すでに常に浄土に居(こ)す
「御消息」(聖典591頁)

身はここにあれども、心はすでに浄土ということ

念仏、往生、浄土 そのことを端的に表現されたのが曽我量深先生の

「往生は心にあり 成仏は身にあり」ということ

 

・歩いてから考える、歩きながら考える、考えてから歩く
(何に書いてあったか?)
ラテン系は歩いてから考える
ゲルマンは歩きながら考える
アングロサクソンは考えてから歩く
という言葉があったような。

(うろ覚えだったのでネットで調べましたが、ありませんでした。
近いのは、これかなぁ↓)

第55号 歩いてから考えるか、考えてから歩くか、歩きながら考えるか: 囲碁大好き

 

私は大垣教区で歩いてから考えるラテン系のようです。
北陸の方というのは、考えてから歩く、アングロサクソンのイメージです。

さて「往生」は、日常会話では「死んだ」事をさします。
往生は「往(ゆ)く」「生まれる」、「往(ゆ)きて生(う)まれる」、そこに生まれるとうこと。
ではなぜ、「生まれる」ということが死んでしまったということになるのか、どういうことがあるか、意味があるのだろうけれども、
ストレートに、浄土に往きて生まれる。浄土を生きる。これが往生
仏のまします世界が浄土。理想がかなわんから死んだあと、死して生まれる、死後の世界と理解されてきたのかもしれん。
大木こだまが「おうじょうしまっせ」
(↑迷林よくわかりませんが、)
困難である、至難であることをそういう

往生は往く生まれる そこに生まれる。そこは仏のまします清浄土。
それは阿弥陀仏の浄土。浄土と言えば阿弥陀仏の浄土をのことで、そのことを特別に極楽世界と言う。

それがどんな世界か、『浄土論』や『浄土論註』いろいろあるだろうけれども、
浄土の世界をいい当てた本願文がある。「大経」四十八願の第一願(聖典15頁)

一  たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
浄土とはこれらのない世界
地獄がない世界とは、絶対平和 争い合うことが無い。
餓鬼がない世界とは、絶対平等 差別されることが無い
畜生がない世界とは、絶対自由
そんな世界の建立が、法蔵菩薩の願いである。
十八願は「念仏してわが名を称えてくれ」
そうして建立されたのが極楽浄土の世界

浄土の世界に生まれるというのが往生。生きている間に念仏の信。そのことによって必ず往生を得る。心は浄土にあって、この娑婆世界に生きる

娑婆の身を持って、娑婆世界は生老病死、生きることを「堪忍土」、耐え忍ばねばならないことでいっぱい

どこまでも深く広く伸びていく浄土があれば、苦難を乗り越えていく力なる。
理想の力だけでは満足することにならない

(仏の)必ず救う、(内容は、)
絶対平和、絶対平等、絶対自由という安住の世界を約束した法蔵菩薩の眼力が、
親鸞聖人の念仏者の生き方ということであろう

聞信 回向 願
はじめに なむあみだぶつ、一切を救う如来の心
そこに喜びを生ずる時、至心回向(至心に回向したまえり)。親鸞聖人独自の解釈、我々ががんばって回向しているのでない。
回向は仏においてない。我々は仏に回向されるもの。他力回向のはたらきによって、願いによって、その人は浄土に往生する。


・信心の人とは、一つの方向に方向づけされた人。身は娑婆にありながら、浄土に向かう。人生の選択肢として取り入れた。浄土に向かうという方向づけを持った人

 

北陸連区坊守研修会in「あえの風」に参加しました その3 に続く