親鸞聖人は、現代でいうと詩のようなものを書いている。
それを私たちは「御和讃(ごわさん)」「ご和讃(わさん)」といっている。
以下に紹介する親鸞聖人の詩は、「八十八歳御筆」と書かれている。1260年文応一年のことば。鎌倉時代(1185年頃から1333年)のことば。
難しくて理解できないかな。でも、それでもいい。
なんていいながら、我慢できずに、自分勝手に※を足しています。
正像末和讃 508P
愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい)
1
浄土真宗に帰(き)すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮(こけ)不実のわが身にて
清浄(しょうじょう)の心(しん)もさらになし
2
外儀(げぎ)のすがたはひとごとに
賢善精進(けんぜんしょうじん)現ぜしむ
貪瞋邪儀(とんじんじゃぎ)おおきゆえ
奸詐(かんさ)ももはし身(み)にみてり
3
悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる
4
無慚無愧(むざんむき)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向(えこう)の御名(みな)なれば
功徳は十方(じっぽう)にみちたまう
5
小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身(み)にて
有情利益(うじょうりやく)はおもうまじ
如来の願船(がんせん)いまさずは
苦海(くかい)をいかでかわたるべき
※有情は、情のあるもの、人間。
※如来の願船(がんせん)がなかったならば、(この)苦海をどうやってわたるだろう
6
蛇蝎奸詐(じゃかつかんさ)のこころにて
自力修善(じりきしゅぜん)はかなうまじ
如来の回向(えこう)をたのまでは
無慚無愧(むざんむき)にてはてぞせん
※蛇蝎ーヘビ・サソリ(毒がある)
※無慚無愧(むざんむき)ー恥じる気持ちもない
※如来の回向をたのまないならば、恥じる気持ちもなくいのちを終わっていく
なお、愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじゅっかい)和讃は十六首ある
愛用↓
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おまけ:
【ツグミ】