桜を撮りました。昨夜葬儀式について話し合いました。
月参りに行きました。
桜を撮りました。
桜の木ってピンク色なんですね。遠くからとればよかったのだけど、つい。
昨夜の学習会では、輪読会の後、
・葬儀式の次第
を話し合った。それぞれに親に教わったやり方とか、自分が大事にしているやり方とか、違うものである。
私の場合、通夜は、
「正信偈草四句目下」「念仏讃(三淘)」和讃「弥陀成佛のこのかたは」「解脱の光輪きわもなし」「清浄光明ならびなし」の次第三首をお参りに来られた方と一緒にお勤めして、
下手でもいいから、「通夜説法」をする。
この後に、「嘆佛偈」を勤める。
おじいちゃんが、「通夜説法」を大事にしたいから、このやり方でやる、と言っていた。隣の寺のご住職は、それが大事だと言って、同じやり方でやった。
だから、うちの村は、私と隣の寺のお姉さんの代になっても、このやり方。
その時に、
・葬儀の時、僧侶が泣くということについて、どう考えているか
みんなはどう思うか、という発題があり、話し合われた。
泣いてもいい、泣いてはいけない、それぞれ挙手をした。
泣いていけないという方は、
ご門徒によって、付き合いによって、思い入れが深い方とそうでない方がいる。その態度を変えてはいけない。差が出るといけない。
儀式をちゃんとやることが、泣くほど思い入れが深い方との別れに、私たち僧侶のやるべきことだと思う。でも、といいながら、できないことがある。
泣いていいと思っている方が大勢
私は、
泣きます。差が出ます。
泣いていいと思っています。
大事な月参り。このおばあちゃんは、大切なおじいちゃんがお浄土へ帰った。未熟な私にいつも丁寧に接してくれた。時には一緒に泣いた。辛いことがあるとよく話を聞いてもらった。
「いつも、迷林さんに愚痴ばかり聞いてもらってごめんね。」とおばあちゃんは、今日も言った。
おばあちゃんがもし、お浄土へ帰ることがあったら、私は泣きます。考えただけで泣けるのだもの。「でも、迷林の方が先にお浄土へ帰ることもあるだよ、車を運転しているからね、私が気をつけていたって、誰かがぶつかってくるかもしれないんだから。」「ごめんね、私が先に死んだら悲しませてしまうね、先に死なないようにするからね。」というたわいもない話をして、今日も二人で泣いてしまった。
「あの角のおうちの桜、咲いていたよ。」
「そうそう、きれいだよね。」とおばあちゃんはいった。
くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。
御文 五帖目十一通 蓮如上人
一緒にあげた御文の言葉に「私のことや。」といって、おばちゃんが泣いたので、「私も同じです。」と話した。称名とはこの場合、念仏・南無阿弥陀仏を称えること。
帰りに寄り道、図書館によって、いろんな言葉が引用されている本を読みました。
人間は、生を見ることが深ければ深いほど、苦悩を見ることが深くなる。
人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする
人間は、人間という動物は、これまで何の意義も有しなかった。地上における人間の存在には何の目標もなかった。「人間は一体何のためのものか」—これは答えのない問いであった。
中略
—人間は自己存在を弁明し、説明し、肯定するべきを知らなかった。彼は自己の意義の問題に苦しんだ。彼はそれ以外にも苦しんだ。彼は要するに一つの病気の動物であった。しかし、苦しみそのものが彼の問題であったのではない。むしろ「何のために苦しむか」という問いの叫びに対する答えの欠如していたことが彼の問題であった。
人間は、この最も勇敢で、最も苦しみに慣れた動物は、苦しみそのものを拒否したりはしない。
彼はそれを欲する、彼はそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が彼に示されるとすればだ。
まだ出典を 確認していないので、後ほど訂正するかもしれません
すでにもって真仮(しんけ)みなこれ大悲の願海に酬報(しゅうほう)せり
真仏土巻の最後の親鸞聖人の言葉の一番大切なのは、この一文だと思う
おまけ:
【コチドリ】
【アオサギ】