『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「遇う」という字は知らなかったものにあうのではない

佐野明弘さん法話より

 

だから私たちが真宗(の教え)は遇うものだという時、「遇う」という字を書きますよね。

この「遇う」という字は知らなかったものにあうのではないと、『真宗新辞典』にはそう書いてある。

本来知っていたんだけれども、忘却をしていた、そのことが「出遇う」形で思い起こされてくる。

 

だから念仏に遇うということは、南無阿弥陀仏に遇うということが、自己に、自分に出遇うということなんですね。

南無阿弥陀仏と対照的に出遇うのでないんだと。

南無阿弥陀仏に出遇うということが自分に出遇うという、一つの、自分を思い起こした、と言ってもいいんです。

思い起こされた自分と、忘れていた自分というものが、実は分別意識という場所なんです。

だから自覚が起こる時にはどうしてもこの分別意識というのが必要なんです。

私たちは花一つを見てああ美しいなぁと言いますけれども、花一つが美しいということの中に、美しさも見ておりますし、いのちの世界全体にこれ触れているんです。

だからそこには善悪はないんです。

いいとも悪いともそういうことではなしに、ただそれを美しいと感覚しているんですね。

そういう真実から離れて、自我の中で一生懸命やっているものが、花一つに触れるところに、ある意味では、閉じこもった自己の中に感じられるものとして、その全体が花のところに触れてきたと、こう言ってもいいです。

それは自我というものが本当のものから離れてしまっているというところにしか出遇えないんです。

これは出遇うというのも離れないと出遇えないんです。離れるから出遇えるんです。

自覚が起こるということは、そうでないものに起こるんです。

思い出すということは、そうでなかった、

旅人がふと、帰ろうとする。

これは外に出ていたということです。

外に出なかったら、帰ることができない。

外に出たものが初めて帰るということを体験するんです。

 

この私たちの自我というのは果てしなくこうやって迷ってきた。

その果てしなく迷ってきたところに、帰るということが初めて成り立つ。

 

それを促すかのように私たちが帰ろうとすると、こういうことを繰り返して来たんですね。そういうことでなしに、道、道程の先に私たちの安住するような世界があるのではなしに、そうではなしに、常に外に出ているものが、外に出ているということを自覚さしめられるということで、うちなるものを感じるんだ。こういう具合になっているんです。目覚めということが私たちの意識に願われている根本の問題なんだということですね。

 

今日のはちょっとかなり禁じ手です。「であう」という言葉にこだわって、「会う」「逢う」「遇う」という字を常に使い分けています。

 

「会う」は同じ場所などで「会(かい)する」こと。

「逢う」は恋人同士の「逢い引き」など。

そして、「遇う」は、山道を歩いていて、石が急に落っこちてくる、なんかも「遇う」だと聞いたことがあるけれど、「遇う」は、「遇うべくしてあう。」 

「遇う」という字は知らなかったものにあうのではないと、『真宗新辞典』にはそう書いてある。本来知っていたんだけれども、忘却をしていた、そのことが、出遇うという形で思い起こされてくる。

 

三帰依


人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身(み)今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
  自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解(たいげ)して、無上意を発(おこ)さん。
  自ら法に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海(ちえうみ)のごとくならん。
  自ら僧に帰依し奉る。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

真宗聖典」一頁の前

 

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