『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

廣大院釋尼浄栄通夜説法

2017.5.6 廣大院釋尼浄栄通夜説法 

 

おおきなさかなはおおきなくちで

ちゅうくらいのさかなをたべ

ちゅうくらいのさかなは

ちいさなさかなをたべ

ちいさなさかなは

もっとちいさな

さかなをたべ

いのちはいのちをいけにえとして

ひかりかがやく

しあわせはふしあわせをやしないとして

はなひらく

どんなよろこびのふかいうみにも

ひとつぶのなみだが

とけていないということはない

(「黄金の魚」谷川俊太郎 「クレーの絵本」講談社より)

 

 

 

皆さま、本日は廣大院釋尼浄栄、○○さんの葬儀式、お通夜にお参りくださいましてありがとうございます。

 

「いい人だったことを彼女の涙が証明している。」と、私が申しましたら、即座に「それは、わかってる。」と、おっしゃいました。なにがあって、だれがいつ、なにをいったか、もう少し丁寧にお伝えするべきでしょうか。

 

○○さんは金沢の染物屋のお嬢さんだったんだよ、と、私にリークして下さった方がおられました。まあ、リークが何かはおいておきまして、なるほどなぁと、そういえば、大正生まれの当寺の一人っ子のお嬢さんとして生まれ育った私の祖母に、雰囲気が似ていたなぁと、今更思っています。まだまだ、一緒に話したいことがあったなあ。

飼っていた文鳥がお浄土へ帰った時、私はずいぶん心配したものでしたが、そのうち、案の定、今、家にいる「ぴーちゃん」を迎えたので、やっぱりな、よかったなと思いました。容態が悪くなって、○○さんの長女である「お姉さん」が、「明日香ちゃん」と一緒に同居して、お世話をすることになって、ミニチュアダックスの「ビア」が家族に加わって、「ぴーちゃん」大丈夫かなぁ、と心配でしたが、「ぴーちゃん」は息子(喪主)さんがちゃんとお世話をしてくださっているので元気です。息子さんが○○さんのために家族として迎えた文鳥です。

 

想い出は尽きませんが、人は亡くなったらお浄土へ帰る、と聞いています。帰る、あるいはる、と書きます。(ちなみに、生まれるときも、お浄土から生まれる、お浄土からのいのちが、お母さんに宿って生まれる、といいます。そういうことを伝える、お釈迦さまの生まれた時の伝承があります。今夜は申しません。)だから、亡くなるということは、そう悲しいことではなくて、元のいのちの場所に帰るのだから、泣かなくてもいいのですが、いなくなることがさみしいので、泣いてもいいのではないかと、私は思います。

 

 さて、院号法名を「廣大院」という字を当寺住職と相談してつけさせていただきました。「廣大」という言葉は、正信偈にある言葉です。赤本には12頁にあります。

ちょっと、今から、呪文のような言葉になりますが、まあ、わかる人もいらっしゃいますので、申します。

 いっさいぜんまくぼんぶにん もんしんにょらいぐぜいがん ぶつごん

こうだいしょうげしゃ(一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言廣()勝解者)

 

一切善悪の凡夫人、  如来の弘誓願を聞信すれば、仏、廣大勝解の者と言(のたま)えり。

 

善悪に悩み生きる どのような人であれ、阿弥陀仏の弘大(こうだい)な誓願を聞き信じる時、釈尊はその人を、真理を領解した者(廣大勝解の者)と褒めてお呼びになります。

 (参考:「書いて学ぶ親鸞のことば正信偈東本願寺)

 

領解-さとること。会得(えとく)。理解。りょうかい。 (広辞苑) 分かった

 

今から申すことも、私の力不足で、まだ、難しくてわからないかもしれませんが、

「念仏を申した時、すでにすくわれている(歎異抄)」という言葉があります。

廣大勝解の者というのは、念仏を申す者、教えに出会ったもののことです。

 

この人のことを、仏教を説かれたお釈迦さまが褒める。「よくぞ、教えに出会ってくれた」といって、喜んで褒める。「廣大」という言葉にはそんな意味があります。

わからんかな。すみません。

 

はじめに、昨夜の仮通夜の時にお伝えした、谷川俊太郎さんという詩人の詩を紹介しました。

いのちはいのちをいけにえとして ひかりかがやく

しあわせはふしあわせをやしないとして はなひらく

どんなよろこびのふかいうみにも ひとつぶのなみだが とけていないということはない

 

 

 

○○さんのご家族は、息子さんを中心として、精進料理でがまんする、という、なんだかわからんけれども、昔の人がやってきて、きっと大事なんだろうことを、意味がわからないけれども、取り組んでおられます。

実は私は、やりませんでした。私のおばあちゃんのお父さんが、今の住職の、前の前の前の住職の方針でした。食べなくて、病気になったらいけないから、無理せんでもいい。と、言い続けたそうです。

でも、私は、心のどこかで、精進料理でがまんすることをしないことに、後ろめたさがありました。だから、○○さんには、「一週間ほど」をお勧めしました。ただの私の提案です。

 

そして、なぜ精進料理なのか、ということは、谷川さんの言葉をお借りすると、 

いのちはいのちをいけにえとして 

私のいのちは、他のもののいのちをいけにえにして、奪って、生きている。

ところが、他のもののいのちを奪って生きていることすら、見えなくなっている

牛肉を食べるとき、殺された牛を思うことはあるでしょうか。私はありません。

考えたらきっと、食べられなくなります。

けれども、大切な人を失うという、悲しみをきっかけとして、精進料理をいただいて、

いままで、肉や魚を食べて、当たり前で、痛みも感じていなかったことを、

食べないということで、考える時間なのではないかと、そう、私は聞きました。

いのちはいのちをいけにえとして ひかりかがやく

しあわせはふしあわせをやしないとして はなひらく

どんなよろこびのふかいうみにも ひとつぶのなみだが とけていないということはない

 

 

 

最後に、もう一つ、谷川俊太郎さんの詩を紹介します。

 

そのあとがある

大切なひとを失ったあと

もうあとはないと思ったあと

すべて終わったと知ったあとにも

終わらないそのあとがある

(「そのあと」谷川俊太郎 「法事のこころ」東本願寺発行リーフレットより)

 

 

 

 私も大切な人を失いました。浄土へ帰りました。

すべて終わったと、その時は思ったけれども、安心してもいいです。終わらないそのあとが、あります。今も、出会い続けています。もしかしたら、存命の母より、

お浄土へ帰った、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、そして、縁ある方たち、

死んでから出会う、ということの方が多いような気もしています。本日お参りに来られた方は、どうでしょうか。よく、聞きます。

 

 

そういうことで、まとまらない話になりましたが、これで話を終わります。一つですね、勇気を出して申しますが、精進料理のことがわからなくてもやってみるように、念仏をわからなくても、今から十回称えていただいて、いいですか。みなさん、手をあわせてください、合掌、「はい、念仏十回。」はい、どうもありがとうございます。

 

 

 

最後に、嘆仏偈という、短いお経をあげて、今日のお通夜のお勤めの儀式の終わりにします。お参りいただきありがとうございました。

 

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春菊が花になりました

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