『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

【正信偈の教え】1 帰命無量寿如来 南無不可思議光

はじまりにあたって

正信偈を勉強しなさい。正信偈に、大事なことが全部書いてある。」と伊藤暁学さんがおっしゃいました。

お講で「正信偈」を課題にしていくことにした。真宗門徒にとって一番馴染みが深いはずの正信偈。これはどけだけ繰り返してお勤めして、スラスラ暗記をしていようとも、実はとても難しい。

難しいから手を負えないけど、勉強したいので、かつて「同朋新聞」に掲載されていて、本になっている『正信偈の教え』(古田和弘著 東本願寺発行)を、読んでいこうと思う。資料を作ってお講の皆さん素読する。

古田和弘先生はユニークな先生で、講義を聞いていてくすりと笑うことが多かった。先生は結構しつこく繰り返す。そういうことは、今になってはありがたい。

 

【原文】
帰 命 無 量 寿 如 来
南 無 不 可 思 議 光

【読み方】
無(む)量(りょう)寿(じゅ)如(にょ)来(らい)に帰(き)命(みょう)し、
不(ふ)可(か)思(し)議(ぎ)光(こう)に南(な)無(む)したてまつる。

・生きる依(よ)り処(ところ)
 「帰命無量寿如来」。この句から「正信偈」は始まります。
 この句と、次の「南無不可思議光」の二句は、「総(そう)讃(さん)」「帰(き)敬(きょう)」といわれているところです。阿弥陀如来に順(したが)い、阿弥陀如来を敬(うやま)うという、親鸞聖人のお心が述べられている部分です。聖人は、「正信偈」を作って、仏の恩徳(おんどく)を讃嘆(さんだん)し、仏の教えを承(う)け伝えられた七高僧の恩徳を讃えようとされるのですが、それに先だって、阿弥陀如来へのご自身の信仰を表明されているわけです。
 「帰命」という言葉と、次の句の「南無」とは同じ意味です。「帰命」は、「ナマス」というインドの言葉を中国の言葉に訳したものです。ご承知の通り、仏教はインドに起こりましたので、お経はすべて、インドのサンスクリット語(梵(ぼん)語(ご)ともいいます)という言葉によって中国に伝えられました。そしてこれが中国語に翻訳されたのですが、あるときは「ナマス」の意味を中国の言葉に置き換えて「帰命」と訳し、またあるときは、意味を訳さないで、インドの言葉の発音を漢字に写し換えて、「南無」という字を当てはめたのです。どちらも、「依り処として、敬い信じて順(したが)います」というほどの気持ちを表わしているのです。ここでは、一つの信順の思いを二つの言葉に分けて表現してあるわけです。
 また、「無量寿如来」も「不可思議光」も、どちらも阿弥陀仏のことです。「如来」の「如」は「真実」という意味です。「真実」を覚(さと)られたのが仏ですが、仏は覚りに留まることなく、「真実」に気づかない「迷い」の状態にある私たちに、「真実」を知らせようと、はたらきかけて来てくださっているのです。その「はたらき」を「如」(真実)から「来」てくださった方というのです。言い方を換えると、姿や形のない「真実」は、いつでも、どこでも、はたらいていますが、私たちの日常の生活を包んでいる、その「はたらき」を、理屈にたよろうとする私たちにもわかるように「如来」という言い方で表わしてあるのです。
 「無量寿」とは、量のない寿命ということです。つまり、数量と関係のない寿命、始めもなく、終わりもない寿命です。
 『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)』というお経には、阿弥陀仏がまだ仏に成(な)られる前のことが説かれています。そのときは、法蔵(ほうぞう)という名の菩薩であられたのですが、この菩薩は、仏に成る前に四十八の願いを発(おこ)されました。そしてその願いがすべて実現したので、阿弥陀仏に成られたと説かれているのです。その四十八願の第十三の願は「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」といわれるもので、「私が仏に成るとしても、寿命に限量(かぎり)があるならば、私は仏には成らない」という誓願(せいがん)であったのです(聖典17頁)。その誓願が成し遂げられて仏に成られた阿弥陀仏の寿命は無量なのです。過去と現在と未来にわたって、いつも悩み苦しむ人びとがいます。それらの人びとをすべて救いたいと願われる阿弥陀仏は、寿命が無量なのです。そのように時間を超えてはたらく阿弥陀仏の限りない慈悲が、いま私たちにはたらいていると教えられているわけです。
 「不可思議光」の「光」は、阿弥陀仏智慧(ちえ)の輝(かがや)き、何ものをも照らし出す智慧の「はたらき」をいいます。「思議」とは、心に思ったり、言葉で話したりすることですが、それが「不可」(できない)とされているのです。私たちがどのように思考を尽くそうとも、また言葉をどのように尽くそうとも、それによっては捉え切れない、それらを越えた智慧のはたらきが「不可思議光」といわれているわけです。『大無量寿経』の四十八願の第十二願が「光明無量(こうみょうむりょう)の願」といわれていますが、「私が仏に成るとしても、光明に限量があって、あらゆる世界を照らし出さないのであれば、私は仏には成らない」と誓われたのです。その誓いが実現したわけですが、それは、阿弥陀仏智慧の「はたらき」が、空間の限度を越えたものであることを表わしているのです。

・いただいている名号(みょうごう)
「帰命」と「南無」とは同じ意味で、ともに「敬い信じて順う」ということでありました。前回申し述べた通りです。また「無量寿如来」と「不可思議光」とは、いずれも「阿弥陀仏」のことであって、「無量寿如来」は阿弥陀仏の「慈悲」を、「不可思議光」は阿弥陀仏の「智慧」を、それぞれ表わしているということも申し述べました。
 そうしますと、「帰命無量寿如来」(無量寿如来に帰命し)ということ、そして「南無不可思議光」(不可思議光に南無したてまつる)ということは、結局、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に南無したてまつる)ということと同じことになるわけです。「阿弥陀仏を敬い信じて、その教えに順います」という念仏の心が、三つの言い方で表わされていることになります。
 ところが、ここに一つ、大切なことがあります。「念仏」という場合、それは阿弥陀仏のお名前、つまり名号を称(とな)えることなのですが、その名号は、実は「阿弥陀仏」だけをいうのではないのです。「南無」を含めて、「南無阿弥陀仏」の全体が名号であると親鸞聖人は教えておられるのです。「南無阿弥陀仏」という名号を称えることが、称名(しょうみょう)の念仏となるのです。同様に、「無量寿如来」「不可思議光」だけを名号というのではなくて、「帰命無量寿如来」また「南無不可思議光」の全体が私たちに与えられている阿弥陀仏のお名前であるというわけです。
 阿弥陀仏に帰命するといいますが、それは、自分が自分の思いで帰命するかどうかを決めるのではないのです。私どもの思いは決して純粋ではありません。清らかではないのです。常に「自分の都合」がつきまといます。「自分の都合」による念仏は、自分のことを念じているだけであって、仏を念じたことにはならないのです。
 自我にこだわり続け、その結果として、悩み苦しむことになるのが、私たちの現実です。そのような、まともな念仏のできない者に代わって、阿弥陀仏の方が念仏してくださって、その清らかな念仏を、信心(しんじん)というかたちで、私たちに回向(えこう)されているのです。「回向」とは、「振り向ける」という意味です。阿弥陀仏の慈悲が原因となり、その原因によって起こるよい結果だけが、私たちに振り向けられていることになるのです。
 そのような慈悲の「はたらき」に素直に感謝し、「南無阿弥陀仏」「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」という名号を、私たちに差し向けられた信心として受けとめるというのが、親鸞聖人の念仏の教えなのです。よく「念仏をいただく」といわれますが、それは、この教えによるのです。
 この教えによりますと、「帰命無量寿如来」という名号は、量(はか)り知れない私の「いのち」の源が、私自身の在り方を呼び覚まそうとしている、その「よびかけ」であることに気づかされるのです。また「南無不可思議光」という、思(し)慮(りょ)を超えた「智慧」の「はたらき」が、私の人生の道理を明らかにし、現に道理に包まれて生きている私自身を照らし出していることを思い知らせているのです。それらのことに気づかされ、思い知らされるとき、称える念仏は、苦悩する私を救おうとする「よびかけ」と「はたらき」に対する感謝の念仏となるのです。
 「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」が名号であると教えられていますが、そうすると、親鸞聖人が、「正信偈」の冒頭(ぼうとう)に、「無量寿如来に帰命し」「不可思議光に南無したてまつる」と述べておられるのは、一見、奇異(きい)に見えます。
 しかしそれは、凡夫の代わりに念仏してくださる阿弥陀仏、そして「南無阿弥陀仏」という名号を差し向けてくださっている阿弥陀仏、すなわち無量寿如来・不可思議光を、心から敬い信じて、その慈悲に順うお気持ちを率直に表わしておられるのであると、私どもには拝察されるのです。
正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版 

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