『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

東日本大震災 勿忘(わすれな)の鐘2018

皆さんようこそお参り下さいました。今年も皆さんにお目にかかれることを楽しみにして参りました。この3月11日という日は、東日本大震災があった日で、約1万6千人近い方が亡くなり、約3千人の方が今も行方不明です。震災があった翌年の2012年から毎年、地震発生と同じ時刻(3月11日午後2時46分)に鐘をついていただいて、皆で犠牲になった方々に思いを馳せています。今年もお願いしたいと思います。

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【決して忘れない 震災を心に刻み、犠牲者に思いを馳せ、復興と支援の思いをつなぐ
東日本大震災 勿忘(わすれな)の鐘
2018年3月11日(日)午後2時46分
私たちの心に深く刻まれた「2011年3月11日」。東日本大震災の発生から7年が経過いたします。
震災後、大津波によって全壊となった岩手県陸前高田市・本稱寺現住職の佐々木隆道さんの「忘れないでほしい」との思いを受けて、仙台教区では「この震災を心に刻み、犠牲者に思いを馳せ、今後も復興と支援の思いをつないでいきたい」という願いのもと、土の中から発見された本稱寺の梵鐘とともに、全国各地それぞれの場所で地震発生と同じ時刻(3月11日午後2時46分)に鐘をつき、法要を勤める呼びかけをしてまいりました。2012年3月から、趣旨に賛同いただいた全国のご寺院にてこの法要が続けられ、今年で7回目を迎えます。どうか今一度東日本大震災の記憶を心に刻む機縁となることを願いまして、わすれなの鐘及び追弔法要をお勤めいただきたく、趣旨へのご賛同をお願いいたします。
真宗大谷派仙台教区 東日本大震災復興本部

忘れないことと覚えていること
今年も3月11日を迎える。震災・津波原発事故で被災された方々は、今もなお、言い表すことのできない時間の流れの中を過ごしておられることと思います。
友人が仮設住宅へ炊き出しに行き、何を感謝されるかというと、「忘れないでいてくれることだ」と言っていた。私も、「忘れないでいてくれてありがとう」と言われたことがある。「覚えていてくれて」ではなく「忘れないでいてくれて」なのだと噛みしめた。「忘れない」と「覚えている」は、意味は同じでも、大きな違いがある。
多くの人は3月11日を迎え、「あれから○年か。大変なことがあった」と思い返す。確かに「覚えている」のだけれど、「あの時」という、点としての記憶は、時の経過とともに風化してしまうこともある。
「忘れない」ということは、こころに刻まれているということ。私の人生の土台に、起きた出来事がしっかりと残っている。「あの時から」という、今につながる線としての記憶。受けた傷をなかったことにして生きることはできない。起きた出来事の延長線上を生きなければならない。
「こころに刻む」とか「目に焼き付ける」という言葉がある。「刻む」とか「焼き付ける」とは、つまりは「傷」ということ。その「傷」は、被災された方々だけではなく、誰もが受けた「傷」。風景や起きた出来事を目に焼き付け、起きた出来事に伴う痛みをこころに刻んで生きる。それが「忘れない」ということではないだろうか。
「覚えている」ということは、記憶を重ねていくうちに埋没してしまう。「忘れない」ということは、たとえ月日を経て記憶が重なっても、常に新しい事実としてこころに残っていることなのだと、私はこころに刻んでいる
(東京教区西蓮寺 白山勝久)

東本願寺発行『同朋新聞』2018年3月号より

 

わすれないでいてほしい、と呼びかけられることを伝える以外になにができるのだろう