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-続迷林遊林航海記

【正信偈の教え】2 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 

【原文】
法 蔵 菩 薩 因 位 時
在 世 自 在 王 仏 所
覩 見 諸 仏 浄 土 因
国 土 人 天 之 善 悪
建 立 無 上 殊 勝 願
超 発 希 有 大 弘 誓
五 劫 思 惟 之 摂 受
重 誓 名 声 聞 十 方

【読み方】
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の因位(いんに)の時、
世自在王仏(せじざいおうぶつ)の所(みもと)にましまして、
諸仏(しょぶつ)の浄土(じょうど)の因(いん)、
土人天の善悪(ぜんあく)を覩見(とけん)して、
無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)を建立(こんりゅう)し、
希有(けう)の大弘誓(だいぐぜい)を超発(ちょうほつ)せり。
五劫(ごこう)、これを思惟(しゆい)して摂受(しょうじゅ)す。
重ねて誓(ちかう)らくは、名声(みょうしょう)十方(じっぽう)に聞こえんと。

法蔵菩薩の深い思い、大きな願い
 『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)』によりますと、阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵(ほうぞう)という菩薩であられたとき、世(せ)自(じ)在(ざい)王(おう)という仏のもとで教えを受けておられましたが、教えを受けるなかで、菩薩は、“浄土を建立して、悩み苦しむ人びとをすべて救いたい”と願うようになられたのでした。そのために、他の仏の浄土の成り立ちを教えていただきたいと、世自在王仏に懇願されたのです。世自在王仏は法蔵菩薩の願を聞き入れて、多くの仏の浄土をお示しになりました。菩薩は、諸仏の浄土とそれらの浄土に生きる人びとのありさまについて、みなことごとく見み究(きわ)められたのでした。
 そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を実現したいという、殊(こと)のほか勝(すぐ)れた願いを発(おこ)されたのです。殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながらそれに気づかず、教えに背を向けているために悩み苦しむ凡(ぼん)夫(ぶ)、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。法蔵菩薩は仏になろうと志しておられましたが、もし、その願いを成就させることができないのであれば、むしろ自分は仏には成らないとまで誓われたのです。
 凡夫は、ものの道理がわかっていないのです。しかも、ものの道理がわかっていない、そのことも、実はわかっていないのです。それなのに、自分自身にこだわって、自分はわかっていると思い、わかっていると思っていることだけが道理だと思い込んでいます。このような凡夫が浄土に生まれるなどということは、通常はあり得ないことです。浄土というのは、自分にこだわって思い上がるなどという、そのような汚(けが)れがまったくない世界だからです。
 法蔵菩薩は、そのように浄土に往生できるはずのない凡夫を、どのようにすれば自分が建立しようとしている浄土に導き入れることができるのか、それを深く深く思案されたのだと、『仏説無量寿経』に説かれています。そのことを親鸞聖人は「五劫(ごこう)思惟(しゆい)之(し)」(五劫、これを思惟して)と述べておられるのです。「劫(こう)」というのは、時間の長さです。気が遠くなるような、途方もなく永い時間です。これには諸説が伝えられていますが、有名なのは次のような話です。
 横幅四十里、高さも四十里、奥行も四十里という大きな岩石があったとして(もちろん富士山よりも大きい)、その岩のそばを羽衣を身にまとった天女が百年(あるいは千年)に一度通りかかるのです。すると羽衣の袖がサッと岩にふれるのです。これを何度も何度も繰り返すと、岩が磨り減ります。この岩石が完全に摩滅してしまうのに要する時間よりも、さらに長い時間を一劫というのです。その一劫の五倍の時間をかけて法蔵菩薩は思案されたわけです。
 私たちも、時には、真剣に思案することがあります。けれども、どんなに真剣に、誠実に思案したとしても、必ず、自分とか、自分の都合とかいうものが絡んでしまいます。そのような思案とはまるで違った、純粋な思案、どうにもならない凡夫を救うための思案を深く深く重ねられたのです。その思いの深さを「五劫」という時間の永さで言い表わしてあるのです。つまり質の深さを量の多さによって表わしてあると考えることができるのです。それほどの深い思い、大きな願いが、私ども凡夫に差し向けられているわけです。
 ここであらためて、親鸞聖人のお言葉が思い起こされます。『歎異抄(たんにしょう)』によりますと、聖人は、「弥陀の五劫思惟(しゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」と述べておられます(聖典640頁)。これほど深い願いがご自分に差し向けられていることに感動しておられるのです。「たすかるはずのない凡夫を何とかしてたすけたいというこの願いは、実は、自分に向けられているとしか思えない」と言っておられるのです。ここには、ご自分を救い難い凡夫であると、真っ正直に厳しく見据えておられる聖人の眼差しがうかがわれるのではないでしょうか。そして、その深い自覚から法蔵菩薩の願いに触れたときの喜びを表明しておられるのではないでしょうか。
 法蔵菩薩は、深い思案の末、たすかるはずのない凡夫をたすける手立てはこれしかないと、思い当たられたのです。そして、四十八項目からなる誓願(せいがん)を選び取られたのです。そのことを「摂(しょう)受(じゅ)」(摂(おさ)め受ける)と説かれているのです。
参考『正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版

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