お散歩道草 osanpomichikusa 

-続迷林遊林航海記

【正信偈の教え】4 本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就  

【原文】
本 願 名 号 正 定 業
至 心 信 楽 願 為 因
成 等 覚 証 大 涅 槃
必 至 滅 度 願 成 就

【読み方】
本願(ほんがん)の名号(みょうごう)は正定(しょうじょう)の業(ごう)なり。
至心(ししん)信楽(しんぎょう)の願(がん)を因(いん)とす。
等覚(とうがく)を成(な)り、大涅槃(だいねはん)を証することは、
必(ひっ)至(し)滅(めつ)度(ど)の願(がん)成就(じょうじゅ)なり。

・本願のかたじけなさ
 親鸞聖人は、「正信偈」をお作りになるに際して、まず、阿弥陀仏の徳を讃えられています。阿弥陀仏は、仏に成られる前、法蔵(ほうぞう)という名の菩薩であられましたが、菩薩は仏に成って一切の人びとを救いたいという、格別の願いを発(おこ)されたのでした。
 それは、深く悩み苦しみながら生きなければならない私たちを救おうとされた願いなのです。目先の出来事に心を奪われて、苦悩している自分の事実すら見失っている私たちを救いたいという願いなのです。
 法蔵菩薩がそのような願いを発され、その願いが実現したことによって、法蔵菩薩阿弥陀仏に成られたのですが、そのことを讃えてあるのが、「正信偈」の「法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)因(いん)位(に)時(じ)」という句からはじまる「依(え)経(きょう)段(だん)」といわれている部分です。『大(だい)無(む)量(りょう)寿(じゅ)経(きょう)』というお経に依って述べてある段落ということです。そしてその「依経段」のはじめの十八句が「弥陀章」といわれている偈文ですが、今回の「本願(ほんがん)名号(みょうごう)正定(しょうじょう)業(ごう)」以下の四句は、その「弥陀章」の結びとなるもっとも大切な偈文です。
 「本願の名号」といいますのは、「南無阿弥陀仏」のことです。法蔵菩薩は、どのような人もすべて救いたいと願われたのです。もし、すべての人びとを救うことができないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのでした。そして、法蔵菩薩のこの誓願(せいがん)は成就したのです。つまり、「南無阿弥陀仏」という名号(みょうごう)を私たちに与えることによって、私たちが苦悩から救いとられて、間違いなく浄土へ往生することが明確になったのです。それで、菩薩は阿弥陀仏に成られたわけです。
 阿弥陀仏の本願は、私たちが生まれてくるよりも前から、もともと私たちのために立てられている願いなのです。そして、その本願は現に私たちに対してはたらき続けているのです。そのことに気づいていない私たちを目覚めさせるために、「南無阿弥陀仏」が私たちに施し与えられているのです。すがたのない本願が「南無阿弥陀仏」という、私たちがいつでも、どこでも称えられる名号として、私たちに差し向けられているというわけです。
 そのような「南無阿弥陀仏」が、まさしく、私たちの往生を確定させるはたらきとなるのです。それが「正(しょう)定(じょう)の業(ごう)」ということです。与えられている「南無阿弥陀仏」をありがたくいただいて称えることが、自分の力では悩み苦しみから脱け出せないでいる私たちの救いの原因となるということなのです。
 この本願の名号が、私たちの救いをまさしく確定させるためのはたらきとなるのは、実は、法蔵菩薩が立てられた願いが原因となっているからです。すなわち、法蔵菩薩が立てられた四十八の誓願のうち、「至(し)心(しん)信(しん)楽(ぎょう)の願」といわれる第十八願が、私たちの往生の直接の原因となっているのです。
 すべての人びとが、法蔵菩薩の建立(こんりゅう)しようとされる浄土に生まれることを求め(欲生(よくしょう))、心を尽くして(至心(ししん))、そこに生まれることを信じて願い(信楽(しんぎょう))、そのことを念じたとして、もしも、その人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと、法蔵菩薩は誓われたのです。それが第十八の誓願です。
 本願の名号、つまり「南無阿弥陀仏」によって、私たちが往生することが、まさしく確定しているのは、とりもなおさず、法蔵菩薩の第十八の願いが成就して、阿弥陀仏に成られたからなのです。
 ありがたいことに、私たちは、何とかして助けたいという深い願いがはたらいている世界に生まれてきているのです。しかし、私たちは、そのような願いに応えようとしないのです。また、応えることができないのです。そのような私たちのために、さらにありがたいことに、「南無阿弥陀仏」が届けられているのです。それなのに私たちは、自分の都合にこだわって、「南無阿弥陀仏」を軽んじてしまいます。
 何ともなさけない私たちに、親鸞聖人は、これらの偈文(げもん)によって、「本願のかたじけなさ」を教えておられると思われるのです。

・往生の確定
 次に、「等覚(とうがく)を成(な)り」とありますが、その「等覚」というのは、「無上(むじょう)正等(しょうとう)正覚(しょうがく)」という言葉を短くしたものと思われます。これは、仏になる覚りのことをいいます。「無上」ですから、その上がなく最高であるということです。
 「正等」は、かたよりがなく等しいということですから、平等ということになります。ただし、平等といいましても、あれとこれが平等だというようなことではなくて、いつでも、どこでも等しいということで、「普遍(ふへん)」と言い換えてもよい言葉なのです。次の「正覚」は、仏の完全な覚りのことです。
 釈尊が得られた覚りは、ご自身のための覚りというのではなくて、人類を導き、人類を救うことを目的とした、人類のための覚りだったのです。そのために、「この上にない、完全に平等な、勝(すぐ)れた覚り」といわれるのです。この「無上正等正覚」というのは、インドの言葉を中国語に改めた言い方ですが、中国語に訳さないで、インドの言葉の発音を写し取って(「音写語」といいます)漢字に表記するときには、「阿(あ)耨(のく)多羅(たら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)」と書き表わされています。
 「等覚を成り」という言葉について、これは、菩薩の五十二の階位のうちの第五十一番目の「等覚位(とうがくい)」(ほとんど仏に近い境地)のことだと、多く解釈されていますが、ここでは、親鸞聖人が、『大無量寿経』とは別に訳された『無量寿如来会(むりょうじゅにょらいえ)』にある第十一願の願文に依っておられるように思われますので、菩薩ではなくて、仏になることと理解することにいたしました。
 「大涅槃」の「涅(ね)槃(はん)」は、もともとは、苦悩の原因である煩悩をすべて滅して、迷いから解放された状態を指す言葉です。また、菩薩たちが六(ろく)波羅(はら)蜜(みつ)という、気の遠くなるような厳しい修行によって到達される悟りの境地のことをいうようにもなりました。しかし、親鸞聖人の教えでは、「涅槃」は、私どもが、阿弥陀仏の本願によって遂げさせていただく「往生」を指しているのです。ですから、「成等覚証大涅槃」(等覚を成り、大涅槃を証することは)という句は、「仏になって、往生という大涅槃を身に受けるのは…」という意味になるわけです。
 「等覚を成り、大涅槃を証する」ということ、つまり、私たちが、往生という大涅槃にいたるのは、それは、阿弥陀仏が、法蔵菩薩であられたときに発された本願のうちの、「必至滅度の願」といわれる第十一の願いが成就したからです。第十一願はまた「証大涅槃の願」ともいわれているものです。それを親鸞聖人は「必至滅度願成就」(必至滅度の願成就せり)と詠(うた)っておられるわけです。
 「滅度」は「涅槃」のことですから、「必ず滅度に至る」ための願いというのは、「必ず涅槃に至る」願いということです。結局それは「必ず浄土に往生させる」という願いということになるのです。
 阿弥陀仏の本願によって、私たちに差し向けられている名号、つまり「南無阿弥陀仏」こそが、私たちの往生をまさしく確定するはたらきをもつのです。それには第十八の「至心信楽の願」が成就していることが直接の原因となっているのです。そして、私たちが往生するということで仏に成るのは、第十一の「必至滅度の願」が成就しているからなのです。
正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版