友人が、歎異抄十四条について、広瀬杲先生の「歎異抄講話3」のところを写真で送ってきた。十四条は読んでも理解しがたく、ここにある金子先生のことばでようやく理解できた。
金子大栄先生が岩波文庫の中でこの十四条をさらっと御領解なさってお述べになっておられるものをあらためて拝読しまして、「なるほど、このとおりでいいのだな」、こう気がついたのです。ですから金子大栄先生の御領解のお言葉をまず最初に拝読しておきます。
経には十念の称名によって八十億劫にわたる重罪が滅ぶと説かれてある。それは十悪・五逆の罪の重いことを思い知らせるものであって、念仏を滅罪の行にせよということではない。しかるに異議者はこの経説によって念仏滅罪説を立てるのである。それは全く他力の信心ではない。真実の信心は、一念発起の時に、すでに必ず仏となるべき身とならしめ、一生増罪のままにして命終に大涅槃を証せしめられるのである。その如来大悲の恩の有難さから念仏もうすのである。
それに反して念仏によって往生するものならば、罪業が無限であるから念仏に退転があってはならない。そして臨終のめでたさも期さねばならぬであろう。しかし病苦のいかんによっては、それも期しがたいということではあるまいか。
真実の信心は、臨時の正念にあるのではない。煩悩の日常において、摂取不捨の願心をいただくことにある。
「歎異抄」岩波文庫 金子大榮校注こう先生はおっしゃっておられます。これは金子大栄先生先生がずいぶん以前にお書きになった御領解の言葉でありますが、・・・
「そして臨終のめでたさも期さねばならぬであろう。」この期さねばならぬの意味が分からなかった。期というのは、「時」だと思っていたので、ここが読めなかった。
友人に質問した。
「期すというのは、期待するということです。
臨終にそうした兆しが現れて、諸仏菩薩が迎えに来てくれることを期待する。
期待するというのは文脈からそう読めるという意味で読んでいるのです。正確な現代語訳でなくて、意訳にしか使えませんけど。」
という返答をいただいた。なるほど。
金子先生の本には、この「期する」という表現が他にもある。当時よく使われた言葉なのだろうか。