『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

信心とは何か(廣瀬杲先生「歎異抄講話3」より)

親鸞聖人は信心とは何かということについて『教行信証』「信巻」の別序に
  
それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。

 

と言っておられます。つまり真実の信心、信楽をいただくということは、私の中から起こってくるのではなく、その根っこは阿弥陀如来の大悲の願心にある。文字どおり如来より賜りたる信心なのだと言われるのです。そしてこういう信心を私のうえに開いてくださるのは、ほかならない大聖釈尊の大悲の御教化・御方便のおはたらきなのであり、その釈尊のお導きによって私のうえに、私の中からは起こってくるはずもない信心、如来選択の願心を根として賜る信心を明らかにしてくださる。これが真実の信心であるとおっしゃって、

しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶(へん)す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。

とおっしゃっいます。「しかるに」とおっしゃるのですから、それが真実であるにもかかわらず、多くの人々は自分自身の心の中が清らかになることが信心だというように、知的な関心へ信心を持ち込んでしまって、真実の証りが明らかにならなくなってしまう。あるいは定散心、つまり道徳的な善い人間になりたい、あるいは人間の関心で宗教的な人間になりたいという、そういう関心のところへ持ち替えてしまうことによって、金剛の真実信心ということに対して蒙昧になっていってしまう。このような如来回向の真実信心にたがう在り方がすべての過ちのもとになっているのだと、『歎異抄』は私たちに呼びかけてくださっているのでありましょう。
歎異抄講話3 廣瀬杲(たかし) 法蔵館

 

 

杲という字は「あきらか」という意味がある。