『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

【正信偈の教え】6  能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

【原文】
能 発 一 念 喜 愛 心
不 断 煩 悩 得 涅 槃
凡 聖 逆 謗 斉 回 入
如 衆 水 入 海 一 味
【読み方】
よく一念(いちねん)喜愛(きあい)の心を発(ほっ)すれば、
煩悩(ぼんのう)を断(だん)ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり。
凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、
衆水(しゅうすい)、海に入りて一味なるがごとし。

・喜愛の心
 「正信偈」には、これまで見てきましたところに、まず、阿弥陀仏の本願の徳が讃嘆(さんだん)してありました。本願というのは、一切の人びとを浄土に迎え入れたいという願いでありました。そしてその願いが、常に私どもに差し向けられていることが述べてありました。次いで、釈尊がこの世間にお出ましになられた、そのわけが述べてありました。それはただ、『大経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私どもに教えようとされたためであったのでした。そして、五濁(ごじょく)という悪い時代社会に生きる私どもは、阿弥陀仏の本願を説かれた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は教えておられるのでした。
 それでは、『大経』に示されている釈尊のお言葉に従うということは、どのようなことであるのか。また、釈尊のお言葉に素直に従うことによって、私どもはどうなってゆくのかが、これから、八行十六句にわたって述べられます。
 まず、「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」と詠われます。「能発(のうほつ)」(よく発す)というのは、文字通りには、起こすことができるという意味ですが、私どもが自分で(喜愛(きあい)の心を)起こすことができる、というのではなく、阿弥陀仏の願いによって、その願われた通りに、(喜愛の心が)私どもの心の中にわき起こるということを意味します。
 さきに「応信如来如実言」(如来如実の言を信ずべし)と詠ってありました。「信」がもとになって「喜愛」があるわけです。しかも親鸞聖人が教えられる「信」は、私どもが自分の意志で起こすものではありません。「南無阿弥陀仏」としてはたらく、阿弥陀仏の本願の力によって起こるものと教えられています。
 阿弥陀仏の願いによって私どもに信心が生じ、その信心によって歓喜(かんぎ)の心が起こされるのです。『大経』に、「あらゆる衆生(しゅじょう)、その名号(みょうごう)を聞きて、信心(しんじん)歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん」と説かれています。ここには、「南無阿弥陀仏」という名号によって「信心歓喜」があると教えられています。しかも「信心」と「歓喜」とが一つのこととして説かれているのです。
 まことに、信心をたまわっていることに気づかされることは、うれしいことなのです。同時に、自分に願いが差し向けられていることを素直に喜ぶことが、実は信心をいただくということになるわけです。

・「煩悩と涅槃」
 「煩悩」とは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用です。私どもの心には、いつも一〇八種類の煩悩がはたらいていると言われていますが、その代表的な、最も深刻な煩悩を「三毒(さんどく)煩悩」と言います。それは、貪欲(とんよく)(欲望をいだくこと)と、瞋恚(しんに)(憎み怒ること)と、愚癡(ぐち)(道理に無知であること)の三つです。
 あらためて自分の心の中を静かにのぞいてみると、まさに教えられている通り、そのような煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず自分を支配していることを認めざるを得ません。自分の利益のためになると思い込み、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていると、釈尊は教えられたのです。しかも、私どもは、自らが引き起こしている煩悩によって、自分自身が苦しんでいる、そのことにすら、なかなか気づけないでいるのです。まことに、道理に無知だといわなければなりません。
 私どもが身に受けているさまざまな苦悩から解き放たれるために、釈尊は、その原因である煩悩を取り除く道を教えられたのでした。そして、すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態を「涅槃」と教えられたのです。
 さらに、煩悩を完全に滅した状態というのは、人の「死」であることから、「涅槃」は「死」と理解されるようにもなり、人が亡くなることを「涅槃に入る」とか、「入滅」とか言われるようになります。やがて「涅槃」についての理解はさらに深められ、「悟り」という意味に理解されるようになりました。
 「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは、煩悩をなくさないままで、煩悩のなくなった状態になるということになりますから、矛盾した言葉になります。けれども「悟り」ということであれば、「悟り」は煩悩の有る無しをはるかに越えた境地ですから、煩悩を断ずるとか、断じないとかにかかわりなく、「悟り」としての「涅槃」に到達することがあるわけです。これが「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という教えの一般的な理解です。
 しかし、「悟り」ということであれば、悟れる人と、悟れない人とができてしまいます。「正信偈」に示されている親鸞聖人のお心からすれば、「涅槃」は、ある個人の「悟り」というようなことではなく、釈尊が教えられた通り、私どもは五濁の世に生きなければなりませんが、その自分の身に届けられている信心を喜ぶことによって、煩悩を飛び越えた「涅槃」が、その人に実現するというではないでしょうか。
・凡夫も聖者(しょうじゃ)も
 さらに、親鸞聖人は「凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし」と続けられます。
 「凡聖」というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」です。
 「逆謗」とは、「五(ご)逆(ぎゃく)」という重い罪を犯した人と、「謗法(ほうぼう)」の人、すなわち仏法を謗(そし)るという悪をはたらく人です。五逆は、①父を殺すこと(害父) ②母を殺すこと(害母) ③聖者を殺すこと(害(がい)阿羅漢(あらかん)) ④仏のお体を傷つけて血を流させること(出(しゅつ)仏身血(ぶつしんけつ)) ⑤教団を分裂させること(破(は)和合(わごう)僧(そう))です。 「回入(えにゅう)」とは、回心(えしん)して帰入(きにゅう)することと言われます。自分の思いにこだわり続ける心をひるがえして、真実に目覚めることです。常に阿弥陀仏の願いが差し向けられている身であるのに、そのことに気づかないのは、仏の願われていることよりも自分の目先の判断を大切にしているからなのです。ですから、自分のはからいを捨てて、真実に背を向ける心をひるがえすことが必要なのです。大きな願いの中に生きている、本来の自分に立ち戻ることが必要なのです。
 煩悩にまみれ続けている凡夫であろうと、煩悩を滅し尽くした浄(きよ)らかな聖者であろうと、また、たとえ五逆というような重い罪を犯す人であろうと、さらには、仏法を謗るような人であろうと、自分本位という思いを大きくひるがえして、真実に対して謙虚になり、本願を喜べるようになるならば、阿弥陀仏の願いによる救いにあずかることになる、それはちょうど、どこから流れてきた川の水であろうと、海に注ぎ込めば、みな同じ塩味になるようなものだと親鸞聖人は教えておられるのです。
 どのような状態にあろうと、またどのような経歴であろうと、阿弥陀仏の願いのもとでは何の違いも区別もない。問題は、私どもの今のあり方がどうであるかということで、真実に背を向けたままの愚かな自分にこだわり続けるのか、それとも、そのような自分に阿弥陀仏の願いが向けられていることに気づかせてもらって喜ぶのか、というところに決定的な相違があります。
 凡夫も聖者も五逆や謗法ですら、ひとしく心をひるがえすならば、さまざまな川の水が海に流れ入って一つの味になるようなものだ、と詠われていますが、この句の直前にあるように、一念の喜愛の心を起こすならば、自ら煩悩を断ち切ることができない者たちであろうとも、涅槃を得させてもらえるのです。
 ここには、本願に触れた一念の喜愛の心が、何にも先立って大切であることが教えられているわけです。
正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版

参考:正信偈の教え-みんなの偈- | 東本願寺 

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