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-続迷林遊林航海記

「歎異抄」序文について

念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。 (金子大榮)

出典:『歎異抄』 金子大栄校注 岩波書店

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歎異抄
親鸞聖人の弟子である唯円(ゆいえん)が著したと言われる書であり、親鸞聖人の言葉によりながら、聖人なきあとの異説を歎き、聖人の教えの真意、真実の信心を伝えようと書き記したと言われています。前後2部に分かれ、前半は、親鸞聖人から聞いた法語を記し、後半では、当時行われていた念仏の異議をあげて批判し、真実の信心に目覚めるように、法然上人や親鸞聖人の言行が引かれています。

親鸞聖人の関連書物など | 東本願寺 より

歎異抄」は、親鸞聖人がおっしゃった言葉が書かれているので大事にされてきた。たくさん本がある。これから、月に一回は、金子大栄校注の岩波書店歎異抄を勉強します。まず、金子先生の言葉を書き写す。次に、自分の感想を書く。最後は、聖教電子化研究会 ( seiten@icho.gr.jp ) を利用して、原文を載せる。

 

・「歎異抄」序文について

今、行われている説には、先師から直接に聞き伝えた真実の信心と異なるもののあることを嘆き、それが聖人の教をうけ続(つ)いでゆこうとする後進の疑惑となることを悲しく思う。まことに因縁の深い善知識の教えがなければ入りがたい易行の法である。それは全く、自己の見解をもって乱されてはならない他力の宗旨である。よって、親鸞聖人の御物語の趣意で耳の底に留まっているものを記すこととした。これひとえに同じ心で道を求める人々の不審を解消したいからである。
歎異抄』 金子大栄校注 岩波書店 

・「親鸞聖人の言葉というのは、自分が抜けていると、読めない、わからない」と、ある本に書いてあった(頷いた。)と、先輩が言っていた。そうだと思う。だけど、この、歎異抄の始まりの言葉の「同じ心で道を求める」にこだわってしまうと、「同じ心で道を求めていない私」が問題になってしまって、動けなくなる。読めなくなる。

金子先生の歎異抄は読むべきなんである。短い本です。

「同じ心で道を求めていない私」が問題になってしまって、読めなくなるのは、もったいない。

歎異抄の著者の唯円房と親鸞聖人は50歳の差があると言われます。唯円房が10代の時に聞いた親鸞聖人の言葉を、聖人がお浄土へ還って(26年後)、同じく教えを聞いてきたはずの人たちが親鸞聖人がおっしゃるはずのないことをいうては迷うようになってきて、「歎異」異なるを嘆いて「抄」抜き出して書いた。けれどもそれはまた、自分自身を嘆いた言葉であったと聞いています。あいつらわかっとらん、ということでなく、聞いた私がなんしとらんか、という、異なるを嘆いた書です。

私は、この序文の中で一番「耳の底に留まっている」というところがすきです。すきよりもっと、何度聞いてもじーんとするところです。「みみのそこにとどまるところ、いささかこれをしるす」、何十年も耳の底に留まる言葉。その言葉は自分を支え、自分を突き動かす。もしかしたら、自分のすべてかもしれない。 

その言葉に、金子大栄師の解説によって、親しんでいきたい。

・原文
 竊回愚案、粗勘古今、歎異先師口伝之真信、思有後学相続之疑惑。 

ひそかにぐあんをめぐらして、ほぼここんをかんがうるに、せんしのくでんのしんしんにことなることをなげき、こうがくそうぞくのぎわくあることをおもう。

幸不依有縁知識者、争得入易行一門哉。全以自見之覚悟、莫乱他力之宗旨。 

さいわいにうえんのちしきによらずは、いかでかいぎょうのいちもんにいることをえんや。まったくじけんのかくごをもって たりきのしゅうしをみだることなかれ。

仍、故親鸞聖人御物語之趣、所留耳底、聊注之、偏為散同心行者之不審也、云々。

よって、こしんらんしょうにんおんものがたりのおもむき、みみのそこにとどまるところ、いささかこれをしるす。ひとえにどうしんぎょうじゃのふしんをさんぜんがためなりと。うんぬん。

 

参考:『歎異抄』 金子大栄校注 岩波書店 (ワイド版もあります)

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

 

p626 / 歎異抄 聖教電子化研究会 ( seiten@icho.gr.jp ) サーバ提供:真宗大谷派大阪教区「銀杏通信」