『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

GWの法事で伝えたこと、伝えられなかったこと

272829日と法事が続いた。

浄土真宗の法事は、(死んだ人のために勤めるのではなく)亡き人を縁として念仏の教えを聞く場を開くということが願われてきた。と、習っているので、毎回必死で読経の後、短い法話をする。

話したいことはあるのだけど、話せなかったので、ここに吐露する。

 

歎異抄第三条

三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。

この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。

 善人でさえも阿弥陀の浄土へ生まれることができます。まして悪人はいうまでもありません。ところが、世間一般の人々はつねにこう言います。「悪人でさえ浄土へ生まれるのなら、善人が生まれることは当然である」と。

これは、一応、道理にかなった言い分のように思われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。なぜかと申しますと、自分の力をたのみにして善行を励み、それによって悟りを開こうと思っている人々は、ひとすじに他力をたのむという心が欠けているのですから、阿弥陀の本願に背いていると言わねばなりません。

歎異抄講話1』廣瀬杲 法蔵館

 

この「自力作善のひと」がこの第三条をいただく上での要だと思います。
この「自力作善のひと」という言葉を、私のおじいちゃんは、京都の僧りょの学校から帰ってきたなりの私に、「迷林ちゃん自力作善のひとってなんや」とたずねてくれました。それからずっと、「自力作善のひと」って何かなぁと思っています。いつもそれなりに答えはあるのだけど、こんでわかったってならんがやね、問い続けています。「実は問いが大事なのだ」と、よく言われます。

じいちゃんはなんで私に「自力作善のひとってなんや」と聞いたのか。
生涯課題になるようなそれは大事なことだったにちがいないんですね。

(信國淳先生は)私たちは誰も皆、自力作善の人と言わなければならないものであり、善人に、善きものに、幸せなものになろうとするその心で、善きものになろうとし、同時に他人の上にも自己自身の上にも悪しきものを作り出し、見出し、善きものになろうとするこころで、悪人を見つけ出し、憎み蔑み、責め、さいなむ、私たちは誰も皆、自己自身が悪しき者であることを恐れる善人なのです。(CD『悪人成仏』信國淳東本願寺)

と、話されていました。

自力作善の人【善人】は、自分でちゃんと善いことしとるし、努力もしとるし、阿弥陀さんにたすけてくれということがない、たすけてもらわんでもいいんだから、「弥陀の本願にあらず」阿弥陀さんがたすけんでいい。「弥陀の本願にあらず」阿弥陀の本願に背いている。

はたして私たちは、自力作善の善人ではなく、往生の正因である他力をたのみたてまつる悪人でしょうか。

 

法事で伝えるにはハードルが高すぎる。だって罪の意識がないのだから。

「仏教は人間の存在を、二つの言葉でとらえます。一つは罪の存在。そして、迷いの存在。私たちは"迷いの衆生よ、念仏申せ"と呼びかけられています」せっかくの念仏の教えを聞く場だから、この一言だけは伝えた。

f:id:meirin41:20190428182046j:plain