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-続迷林遊林航海記

「阿弥陀仏に願われていることが難しい」

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 私も、45歳を過ぎて涙もろくなったのか。おそらく娘は、ずっとそうだ、というだろうけど。

 妹が、報恩講の夜に、大きな目を見開いて、「難しいんだ」と言った。私はすぐさまそれに同調したのだけど、ずっとそのことが大事でしょうがなかった。「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」

 親鸞聖人は、「常照護」を「照護したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。


 私たちは、自分の思いを最優先させて物事に接しています。そして、自分にわかることだけが事実であると思い込んでいるのではないでしょうか。親鸞聖人は、『仏説無量寿経』の教えを通して、阿弥陀仏大慈悲心の光が、常に照護してくださっているという事実にお気づきになり、私どもの思い込みが、実は思い違いでしかないことを指摘しておられると思われるのです。


 常に私どもを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られているはずなのです。それもまた事実なのです。しかし、心を支配している「貪むさぼり」(貪愛とんない)と「憎しみ」(瞋憎しんぞう)によって、私どもは、その事実に眼をそむけているのです。
 摂取心光常照護 已能雖破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
正信偈の教え』古田和弘著 東本願寺出版

 私の妹が言っていたのはこれだった。そう思って涙がこぼれた。親鸞聖人は、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」という言葉をたくさん残してくれている。だから私は難しいことも、わからないことも、それを喜べないことも、安心していられる。

  仏智うたがうつみふかし
   この心おもいしるならば
   くゆるこころをむねとして
   仏智の不思議をたのむべし

   親鸞聖人『正像末和讃』(「疑惑和讃」)(「誡疑讃」)

 

と、ラインに書いて、この親鸞聖人の御和讃を、鎌倉時代の言葉を、高校生の姪と遊林に現代語に訳してもらうことにした。

19:21 めいちい

  仏の智慧を疑うのは罪深いことです。
  教えを知ろうとするならば、
  苦の心を旨として、
  仏の智慧の不思議さを知ろうとするべし。

19:21 めいちい

  めっちゃ難しい!😅 それっぽく訳してみた笑

19:49 迷林

  めいちいちゃんすばらしい。正しいところもあるけど大事なところが違う。とてもいい。遊林も訳してみて!

20:26 遊林

  仏の智を疑う罪は深い
  このことを十分理解するならば
  思い悩むこころを中心として
  仏の智の不思議を頼みにせよ

 20:26 遊林

  不思議ってなに・・・

 20:35 迷林

  うんうん。遊林もすばらしい

 

 「仏智」は、めいちいちゃんの訳のように、「仏の智慧」と訳されるのことが多い。
一行目は二人とも正しい。「仏の智慧を疑うのは罪深いことです」。

 二行目「この心おもいしるならば」は、「この心を思い知るならば」です。
めいちいちゃんの訳はまだ知っていない。遊林は正解に近いけど、
問題は「この心」とはなにか。思い知るのは「私」。

「この心」は「仏智を疑う罪は深い」ではなく、「仏智」そのものです。別の言葉で言うと「仏の心」そのものだと思います。
それが、私の妹がいっていた、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」ということです。
この「阿弥陀仏に願われていること」が仏智です。また「仏智(阿弥陀仏智慧)」は、照らされ護られるものです。

 三行目「くゆるこころをむねとして」は、「悔いるこころを宗(中心)として」です。
私はこの言葉がとても好きです。「悔いる」ということしかないからです。

 四行目「仏智の不思議をたのむべし」は、「たのむべし」が理解できなかったようです。
「頼む」でも間違いではないと思いますが、「知る」という意味は無いと思います。
「たのむ」は「憑む」と書きます。ただし古語辞典にはありません。
親鸞聖人は、「頼む」とは書かずに「憑む」と書きます。
仏の智慧は「不思議」。思議は、考えるという意味。不思議は、考えることが出来ないという意味。

 「たのむ」というのは、南無阿弥陀仏の「南無」です。
正信偈』のはじめに「南無不可思議光(仏)」という言葉がありますが、
それは「不可思議光仏に(私を)おまかせします」という意味です。

  仏の智慧を疑うのは罪深いことです
  この(仏の)心を思い知るならば
  悔いるこころを宗(中心)として
  仏の智慧の不思議をたのみなさい
  考えることが出来ない仏の智慧におまかせしなさい
  =南無阿弥陀仏

一晩考えた。

仏智うたがうつみふかし
 この心おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

いろいろ考えたけど、やっぱり迷林間違っていました。
二行目の「この心」は、「この中身」「この意味」ということなので、
遊林が訳したように「このことを」で正解。

「この心」は「仏智を疑う罪は深い」ことです。やっぱり。ごめんなさい。

私の妹がいっていた、「阿弥陀仏に願われていることが難しい。難しくて難しくてわからない」ということが、「仏智を疑う罪は深い」ということです。

 迷林訳 仏智を疑う罪は深い
     この意味を理解するならば
     悔いるこころを宗(中心)として
     仏智の不思議をたのむべし
     不可思議光仏の智慧におまかせしなさい

智慧は慈悲としてわたしたちにはたらく。
親鸞聖人は、智慧にもとづいた慈悲の心を「摂取の心光」といい、
「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護たまう)と書かれている。
不可思議光仏は阿弥陀仏のこと。

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長くなりました。