『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

ちょっといらいらする

チラシを作った。9/16

ダメ出し入る。↓に変更。

 『仏説観無量寿経』における「是旃陀羅」問題は、1922年全国水平社創立以来、東西両本願寺が問われて続けてきた課題です。
 2013年部落解放同盟広島県連合会から改めて指摘を受けました。これは、宗派に対する問いかけであり、これまでの教学の歩みが差別を助長するものではないのかという悲痛なる叫び声でもあります。
 私たちは問いかけの前に真に立っているのか、真宗の教えを聞く者として決して看過できない大切な課題です。そのことを、今一度、私たち一人ひとりが見直し、自身を尋ねていきたいと思います。

 

(私たちってニカイイルカ?字が多すぎるって。)

訂正して再提出9/29。10/11再指示、

「『仏説観無量寿経』における「是旃陀羅」問題は、1922年全国水平社創立以来、東西両本願寺に対して要請され続けてきた課題です。」(要請され続けてきた)「何を?」。2013年「、」。「これは、」行頭スペース省く。「あります。」(?指示見えない)

・・・ちょっといらいらする。

チラシ作りは(僧侶の)在宅ワークのボランティア。教区の行事の(たとえば公開講座を開くとかフィールドワークを行うとかの話し合いの)会議の旅費を削減する案もある。ふーん、否定はしないけど、つきあってられん。真宗大谷派、ごめん。

親鸞聖人に謝ることはしていないです。

 

真宗とは

10/2に参加した研修会で、和田稠先生が言っておられた言葉が紹介された。

みなさんわからんわからんといわれましたが、私もわかりません。体系立てて作られたところに宗教はないと思っています。僕たちはいつも、真宗を前において、対象として論じている。でも真宗はうしろにあり、親鸞聖人を押し出していったもの。だから対象とはいえない。我々が了解したものが真宗ではない。それは概念。親鸞聖人は自分を押し出したものを真宗と名付けておられるのです。

同じく業縁の存在だと、殺した人も殺された人も許すことが果たしてできるだろうかと腑に落ちずに過ごしたが、それは聞こえてきた方が頷いた言葉なのだと感じた。

対象にして、私が理解しようとしてもわからないことだと気付いた。互いに業縁の存在であるということは美作騒擾に寄り添う上杉先生に聞こえてきたことなのだと思う。

解放運動要員研修会第6回小レポートは90%出来た。帰ってきた私はここに書いたことを抱きしめていく。親鸞聖人の52歳は、

しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。
 三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。
真宗聖典』356・360頁

 『教行信証』「化身土本巻」にある言葉。この時、

  親鸞年齢52歳、親鸞、当年を末法に入って、684年と『教行信証』に記す。

  (『教行 信証』草稿本完成説あり。)

と書かれる。また「延暦寺宗徒の奏請により専修念仏禁止される」と書かれる。「年表」付録(『真宗聖典』1136頁)

この「我が元仁元年」については、2023年春に慶讃(きょうさん)法要が本山で勤められるので、また触れることもあるだろうけれども、「52歳」。数え歳とか細かいことはまあちょっとおいて、思索をまとめずにおられなくなる歳なのかも知れません。

 

たがいに業縁の存在

 22時に眠気に襲われた。ここのところ3時までパソコンに向かってる事が多かったのだが、まあなんかそうだよなと思ってコンタクトを外して寝た。0:30すぎに目が覚めた。酒の酔いが覚めたのかもしれない。 

 美作騒擾は18人の真宗門徒が殺された。殺した人の中にも真宗門徒がいる。
歎異抄』第十三条に、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉がある。「しかるべき業縁がおこったら、どんなこともしてしまうのだ」。

「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいし。
また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいし。(『真宗聖典』633・634頁)

業縁の存在、一人ひとりそれぞれに背負っている業と、であうものによって、その人になる。それはそうだろうが、業縁の存在だからと、殺した人も殺された人も諦められるのだろうか。そしてそれは諦めなのだろうか。縁次第では、人を殺すかもしれない私であることはわかる。でも、だから、同じく業縁の存在だと、殺した人も殺された人も許すことが果たしてできるだろうか。

 

 明治4年8月28日太政官布告「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」は、単なる賤民制度、被差別部落の制度を廃止したに過ぎないものであり、新しいところに移し替えるあるいは差別を禁止するという意味合いは一切ない。差別的行為に対して一切を手をふれなかったもの。被差別者を差別し襲撃をすることを止めない。差別を黙認して、殺していくこと認める、放置する側面があった。布告自身が欠陥を持つ。

 

 そうであるから、この布告や布告を発令した者が問題なのだ、ということも、布告を発令した者もまた業縁の存在なのである。

 だから人間そのものに罪がある。何をしていても、殺しても殺されても、差別を黙認して、殺していくこと認める布告を発令したとしても、しなくても。人間そのものが罪を抱えて生まれてくる(佐野明弘氏)。それでもやはり腑に落ちない。これはなにか。

 

 

美作騒擾(みまさかそうじょう)140年の沈黙に

「美作騒擾」について学んだのでレポートを書いている。2022年5月28日「美作騒擾150回忌法要」が勤修された。なぜ美作騒擾が起こったのか、そのきっかけとなる「賤民廃止令」のことは、まとめることが出来そうだが、美作騒擾自体を書こうとすると辛くて進まない。

殺されたのは被差別部落民ばかり18人、襲った側は死刑が15人、処罰者数が2万7千人。 1873(明治6)年、岡山県北部美作(みまさか)地方でおきた騒擾事件は明治の同種の事件の中でも大規模なのに、正史ではほとんど扱われない不思議な事件である。

「被差別部落民18人殺害、美作騒擾140年の沈黙に抗う~頭士 倫典」 ジャーナリスト・西村 秀樹 | シリーズ・ 抗う人 (gendainoriron.jp)


ジャーナリストって偉大だ。西村氏は「パソコンのキーボードをたたき文章を転載するだけで、こちらの心が凍ってくる」と書かれているが、私は血が流れる思いがする。仏教では人間を「有漏(うろ)」という。これは身から漏れ出るもの、流れ出るものがあることをいうと、真宗大谷派教学研究所の武田氏が講義で話しておられた。汗が出たり、涙が出たりする。痛みと共に血が流れ出る。
レポートが仕上がったらまた報告します。

【参考文献】

『部落(むら)を襲った一揆』上杉聰著(解放出版社)・2頁
『これでわかった!部落の歴史』上杉聰著(解放出版社)・190頁

広辞苑』第六版(岩波書店)・471頁

 

 

「仏となる」とは

(前回同文)「仏となる」とはどんなことであろうか。それはすでにいうごとく報土に往生することである。不安と苦悩とのない境地(涅槃)にいたることである。それが如来と往生人との同証する境地である。しかし仏となるということには、そこに人間の理想が満たされるという意味があるようである。仏とは覚を意味するから人が人である意味を覚り、人となるべき道を行い、真の人となることを仏となるというのであろう。この意味において「仏となる」とは、人間の理想を満足することであらねばならない。

 ここで問題となるのは、人間の理想とは、いかにあるべきものであるかということである。仏教ではそれを自覚覚他(自もさとり、他をもさとらしめる)といい、また自利利他を成就するものというである。我らの求めるものは単なる自身の涅槃ではない。すべての人の不安と苦悩とのないようにということである。しかしその高遠なる理想はいかにしても我らの一生において満足されるものではない。それにしてもなお理想は満足せねばならぬとすれば、さらに生を変えても、その実現を期せねばならぬであろう。たとえその来生の有無は分からないとしても、理想を持つ人間には、来生は要請せられる。我らは永劫をかけて、幾多の生を経ても、その理想を満足せねばならない。その志願に向かって精進するものは、即ち聖道といわれているものである。

 しかし永劫をかけても理想は実現せねばならないということは、言い換(か)えれば実現する時がないということであろう。我らは仏にならねばならぬが、しかし仏にはなれない。その矛盾にあるものが人間である。それのみではない、その人間の理想を実現することは愛憎の悩みを超克(ちょうこく)することとなるのであるが、現実にはかえって愛憎によって反理想に逆転しつつあるのである。よって人間生活は、ただ常に不満足というだけではなく、常に流転(るてん)し輪廻(りんね)しつつあるものである。したがって来生を要請しても、結局は現に感じつつある生死の不安は除かれることはないであろう。人間一生において解決のつかないことは、永劫をかけても解決はつかない。ここに聖道の理想の成就しがたい所以(ゆえん)がある。つまりこれ人間自力を頼むものであるからである。しかるにその「仏となる」ことは如来の「本願を信じ念仏をもうす」ことによって可能となるのである。それが「浄土のさとり」である。即ち阿弥陀仏と同じものとなるのである。

 しからば「本願を信じ念仏をまうす」ものの「仏となる」過程はいかなるものであろうか。それは本願を信ずる者には大悲が感じられ、念仏をもうすものは摂取不捨の光に護られているからである。念仏するとは、常に摂取の光の中に自身を見出すことである。したがって念仏する身には、人間の一切の生活は、すべて光明摂取の中に行われるものとなるであろう。そこに善に誇らず悪を愧(は)じ、悲しみの裡(うち)にも喜びを見出し、快楽の上にも反省せしめられるものがある。また自らが我執を離れ、他の立場を了解して真実に協和しゆくことともなるであろう。それは煩悩のままに流転しゆく人生が、「仏となる」ものへと転成するのである。この摂取不捨の利益によってえられる境地を「正定聚の位」という。それは正しく報土往生に定まれるものということである。またその摂取不捨の徳として心身に現れるものを、柔和忍辱という。それは硬直と柔弱にあらざる健全の身心である。

 これによって永劫無限の時を経て修行しなければ成れない「仏」に、あるがままの人生の 終帰として成らしめられるのである。これ即ち人間の理想としては不可能であることが、如来の本願によって成就することである。しかるにその「浄土のさとり」はすでにいうごとく弥陀と同証するものである。したがって仏とならば、また弥陀と同じく「おもふうがごとく衆生を利益」しうるものとなるのであろう。それは還相回向として説かれたものである。さればその還相回向こそは自力にては不可能とせられた高遠なる理想が如来の本願によって可能ならしめられるということであろうか。「尽十方の無礙の一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ」(第15章)とは、煩悩具足のこの身にも尽きぬ願ある。まことに不思議の事実と言わねばならない。 

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)18頁

(言葉の右横に点を付けることができないため、下線にした。)

 

 「不安定になっている」とお兄ちゃんは言った。腑に落ちた。お兄ちゃんは血の繋がらない弟みたいなもので家族である。遊林にとってはお兄ちゃん。しばらく言い合った。「おまえが前不安定になって俺にあたったのはいつだっただろう」(15年位前?)「俺にあたればいいんだよ」と言って笑った。私は泣いた。ごめんなさいと言った。
 仏かよ。
 私を許すのは私でなくて仏である。聖道の仏・浄土の仏ではないのかもしれない。それはわからない。
 私を許す仏は、阿弥陀仏とは違って不完全である。たぶん。だって、阿弥陀仏にはいつも許されているけど、それが聞こえないのだから。聞こえるのは呼ぶ時。私は阿弥陀仏を呼んでいないのだ。求めていないのだ。「たすけてください」といえない。自分でなんとかしようとして止まない。誰かがいっていた諦められないというのはこういうことなんだろうな。

FFやドラクエをやっていたお兄ちゃんいわく、私はHP120なんだそうだ(HP500くらいだと思っていたのに、違うらしい)。

HP80くらいにはなった。なんとか戦えると思う。

召喚獣を使う。

召喚獣がいなくてもがんばれる。がんばる。なにを。ばかだね。

『歎異抄』第四条【私訳】

 『歎異抄』第四条と第五条は続いていると友人が言った。そうに違いないけれども、二つについて自分は書けないことに昨日気付いた。
 昨日書けなかったので語句の意味を確認する。『歎異抄』本文も岩波本から引用する。


 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかに、いとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそふらふべきと、云々

 

(1)聖道-聖者の道。この世にて覚りを開くことを期するもの。
(2)浄土-凡人の法。浄土の往生を願うもの。
(3)もの-生きとし生けるもの
(4)ありがたし-まれである。
(5)また-法要本による。永正本はなし。
(6)いそぎ-まずもって。
(7)不敏-気の毒。
(8)始終なし-一貫しない。
歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)47頁

 

 金子先生は、「聖道」を「この世にて覚りを開くことを期するもの」と書く。「聖道門」と言っていいと思う。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」とあるように「聖道門」に対するのは「浄土門」。佐野明弘師が繰り返し話されるのは「浄土教はこの世においてたすからない自覚がある」(10.3④確認してからまた書く)。金子先生の言葉に当てはめると、「浄土」(浄土教)は、「この世にて覚りを開く期なし」。「期」は期待すること。だから「浄土の往生を願う」。それは、「この世」「今生」を浄土にする教えではない。
 「法要本」「永正本」について、以下のように書かれている。

 この抄には古写本・古版本ともに数本ずつ存し、しかもいずれもみな幾分ずつ相違しているようである。『歎異抄』(岩波書店)28頁

 「法要本」は西本願寺開版。「永正本」は「端の坊永正本」(大谷大学所蔵)。ちなみに大谷派の『真宗聖典』の『歎異抄』は「永正本」を底本にしている。

 もう少しいうと、『真宗聖典』と、岩波本『歎異抄』は違いがある。金子先生は、西本願寺開版の「法要本」を底本にしている。私は大谷専修学院で、岩波本『歎異抄』を「、。」まで暗記する課題をいただいた。だから『真宗聖典』と違うのは知っていた。

 金子先生の意味を参考にして、現代語訳する。

【私訳】

慈悲に聖道・浄土の変わり目がある。聖道の慈悲というのは、生きとし生けるものを慈しみ、苦を悲しみ、育てる。けれども、思うようにすくい遂げることは、極めてまれである。また浄土の慈悲というのは、念仏して、まずもって仏になって、大慈大悲心をもって、仏の思うように生きとし生けるものを利益するをいうべきである。
今生に、どんなに、愛おしみ、気の毒に思っても、(かわいそうだからなんとかしたいと思っても、)存知のごとくすくい難いので、(たすけ遂げることがほとんど出来ないので、)この慈悲(愛おしみ、なんとかしたいと思う)は一貫していない。そうであるから、念仏申すのみが、末通る(一貫した)大慈悲心なのであります。云々

 

「仏となる」とはどんなことであろうか。それはすでにいうごとく報土に往生することである。不安と苦悩とのない境地(涅槃)にいたることである。それが如来と往生人との同証する境地である。しかし仏となるということには、そこに人間の理想が満たされるという意味があるようである。仏とは覚を意味するから人が人である意味を覚り、人となるべき道を行い、真の人となることを仏となるというのであろう。この意味において「仏となる」とは、人間の理想を満足することであらねばならない。(続く)

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)18頁



『歎異抄』第四条 慈悲に聖道浄土のかわりめあり・第五条 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。


 一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

歎異抄』(『真宗聖典』628頁)  真宗聖典検索 Web site (higashihonganji.or.jp)

 慈悲は人間の理想である。さればそれを現実にするこそ聖なる道であろう。しかしそれは容易に行われない。その能力のない我らにあっては、まずもって浄土に往生し、仏の自在力をえてのちにと期するほかないのである。

 それは慈悲の心を捨てるものではない。浄土を願う者は、すでに自他の業縁を悲しむ心があるのである。したがって念仏もうす身には、深く如来(にょらい)の大慈大悲心が感ぜられているのである。それ故にこの大慈大悲の実現を、「仏になりて」と期するのである。

 すべての人の救われる法において、自身は救われ、自身の救われる法を身証して、すべての人の救われる道は見開かれるのである。

5

 亡き父母を慕(しと)うてその追福を思うのは、子孫の至情である。けれどもすでに死生の境を異にしている。そこには凡夫自力の及ぶことのできないものがあるのである。さらに翻って思うに「一切の有情はみなもて世々生々父母兄弟」である。それこそ仏教の人間観として念仏者の忘るべからざることである。されば念仏者は、急ぎ仏となって、まず縁ある者を済(すく)うべきである。念仏はそのために与えられたものであって、父母の追善(ついぜん)の為に用いらるべきものではない。そうすることは他力の法を自力の善となすものとなるからである。

 これは念仏の徳を限定するものではない。かえって死生の境を超(こ)えて、無限に開け行く道を思い知らしめるものである。

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)48頁

 第四条と第五条はつながっていると友人はいった。なるほど第四条の「念仏して、いそぎ仏になりて」と第五条の「この順次生に仏になりて」は同じようなことであろう。彼は、これらは誰かに聞かれて親鸞聖人が答えたことなのだと理解しているとも話した。そんなふうに考えたことがなかったので、感激した。「念仏して、いそぎ仏になりて」は「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」につながる。

 今回の金子先生の言葉にはピンとこない。「仏になりて」の理解が違うからである。「第四条の聖道の慈悲はわかるけれども、浄土の慈悲はわからない」という方を何人かみたけれど、これは第四条を語れないと思う。

親鸞聖人の和讃(わさん・うた)がある。

25 五十六億七千万
  弥勒菩薩はとしをへん
  まことの信心うるひとは
  このたびさとりをひらくべし
正像末和讃』(『真宗聖典』502頁) 

五十六億七千万の後、弥勒菩薩はようやく仏の覚りを開くのです。しかし、真の信心を獲る人は、すぐさま覚りに触れるのです。

正像末和讃を読む―悲泣にはじまる仏道―』木越康著(真宗大谷派大阪教務所発行)・135頁

仏になって人をすくうというのは、念仏の信心を獲ること。今回はこれだけにします。

 

木越康先生の本は「法蔵館」で買いました。「法蔵館」はサンクチュアリのように思うのです。東本願寺にお参りしたら御影堂門の信号を渡ってすぐのところにあります。

法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年 (hozokan.co.jp)

 

 

 

鴻雁来(こうがんきたる)10月8日頃

金木犀が散っています

白い彼岸花 咲いている姿を見ず

山茶花は花の準備。あれ?椿?咲いてる。もしかして夏以外ずっと咲く?椿?

日が暮れてきたので明るい方を目指します

大好きな大待宵草を撮りたいのだけど草茫々で近づけません

ようやく会えました。あなたに会いたくて此処に来ました。

ここからは神の領域かもしれません。そういえば昨日カモシカを見ました。

【参考】

・寒露(かんろ)初候 鴻雁来(こうがんきたる) |七十二候と旬のおはなし | 七十二候と旬のおはなし | 暦生活 (543life.com)

・七十二候|暮らし歳時記 (i-nekko.jp)

 

 

「是旃陀羅」問題学習会開催の願い

次世代の会・坊守会合同学習会

「是旃陀羅」問題学習会開催の願い

 

 初秋の候、皆様におかれましては益々ご法義相続のこととお慶び申しあげます。

 この度、金沢教区第11組次世代の会・坊守会合同で、「是旃陀羅」問題学習会を開催することにいたします。 

 地域によって異なりますが、組内では法事に『仏説観無量寿経』が勤められることが多いです。この『観経(かんぎょう)』に、「是旃陀羅(ぜせんだら)、不宜(ふぎ)住此(じゅし)」(『真宗聖典』91頁)母親殺しを行えば、刹利種(クシャトリア・王族)を汚します、それは「旃陀羅」であり、ここにいることは出来ません、と臣下の月光にいわれ、国王阿闍世は母親殺しをとどまることが書かれています。 

 この「是旃陀羅」について善導大師は「すなわちこれ四姓(ししょう)の下流(げる)なり。これすなわち性(しょう)凶悪(きょうあく)を懐(いだ)きて仁義(じんぎ)をならわず、人皮(にんぴ)をつけたりといえども、行(ぎょう)、禽獣(きんじゅう※)に同じ」(『観経疏』)とし、宗門は、近世において、宗学者が「旃陀羅」の語を「穢多」と同義に解し、同意語として流布し、それは近代になっても無批判に踏襲されました。

観無量寿経』の「是旃陀羅」の教説部分は、被差別者にとってはやりきれないほど、心に痛みを感じるところである。

小森龍邦親鸞思想に魅せられて』明石書店・2014 年・79 頁)

私たちが読誦するお経に傷つく方々がおられることを共に考えたいと思います。

(日程は同封のチラシを御覧ください)。どうかご参加ください。

 

ご参加の方には、閉会後にかほく市内の飲食店のお弁当をお渡ししたいと思います。(要申込)

※禽獣(きんじゅう)とは猛禽の鳥・獣のこと。

 

 

自他の出会い

 連日やってもやっても仕事がある。忙しくて一日一食の日が多々ある。掃除できる暇はない。夕方から痛み止めのため酒を飲むあおる。

 コロナでテレワーク在宅勤務が多くなり女性の自殺者が増加したことが身にしみる。これで夫の昼飯を作れと言われたら私はキレそう。

 数年前に女性議員が、政策秘書だった50代の男性に、暴力と「このハゲ~」等の暴言の騒動が問題になって議員辞職されたが、私は最近(10/1)zoom学習会の複数の人前で、以前された仕打ちに対して腹ただしい思いを持ち続けている人のことを「あのハゲが」と叫んでしまった。女にとって男性のハゲは、男が考えるのとはなにか違う。それにしても、「ハゲ!」と叫んでいろんなものを失って辞めた方がいる。

私が「ハゲ!」と叫んで辞めなければならなくなるものはなにか。

彼女が辞めたものはなにか。

その辞め得ざるをえないものが、私が、「私」としているものなのだと思う。

辞めなければならなくなったら辞めたらいいのです。

そしたらまたしぶとくなにかがきっと残る。それを私とするに違いない。

 

報恩講研修会で田中美津論を学んだ。まあ実はこれは3年位前から取り組んでいた課題でもあった。買った本を開くたびになにか拒絶し続けたが、講師の方々のお陰で自分のところに入ってきた。

「己れの闇は己れの闇。他人の痛みは共有できない」という彼女の直感と「永田洋子はあたしだ」という自他の出会い

『人間の生のありえなさ』脇坂真弥著(青土社)・52頁

「このハゲ~」といった〇〇さんはあたしだ。

脇坂真弥先生は大谷大学文学部教授。学生さんはこんな面白い講義が聞けるのだなと、とてもうらやましく思った。また聞きたいなぁ。

今週のお題「最近おもしろかった本」