『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

【正信偈の教え】7  摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

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【原文】
摂 取 心 光 常 照 護  
已 能 雖 破 無 明 闇
貪 愛 瞋 憎 之 雲 霧  
常 覆 真 実 信 心 天
譬 如 日 光 覆 雲 霧
雲 霧 之 下 明 無 闇
【読み方】
摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常に照(しょう)護(ご)したまう。
すでによく無(む)明(みょう)の闇(あん)を破(は)すといえども、
貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、
常に真実信心(しんじん)の天(てん)に覆(おお)えり。
たとえば、日光の雲(うん)霧(む)に覆(おお)わるれども、
雲霧の下(した)、明らかにして闇(くら)きことなきがごとし。

・常に照らされている私の事実
 「摂取(せっしゅ)」というのは、阿弥陀仏が私たちを摂(おさ)め取ってくださること、すなわち、救い取ろうとしてくださっていることです。そして、その「摂取」ということは、「心光」によることとされています。「心光」は、阿弥陀仏大慈悲心の光です。
 「光」は、多くの場合、仏の「智慧(ちえ)」のはたらきのことをいいます。私どもは、自分の思いにこだわり続けていますから、本当のことがわからず、ものの道理についてまったく「無知」なのです。しかも、道理がわかっていないのに、わかっていると思いこんでいるのです。つまり、わかっていないこと、そのこと自体が、実はわかっていないのです。
 そのような心は真っ暗闇のようだと教えられています。暗闇を暗闇でなくするもの、それが「光」です。しかし、暗闇が、どこか他の所へ移動していって、そこが暗闇でなくなるのではありません。「光」のはたらきを受けて、同じ暗闇そのものが、そのまま暗闇でなくなるのです。私どもの心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」なのです。
 その「智慧」が完全にはたらくときには、それは「慈悲」となって私どもにはたらきかけているのです。言い換えれば、私どもに差し向けられている「慈悲」を身に感ぜしめられることによって、仏の深い「智慧」のはたらきを知らしめられるのです。そのような「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と詠われているのです。その光は、「常に照護したまう」と言われています。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ろうとしてくださっているというわけです。
 親鸞聖人は、「常(じょう)照(しょう)護(ご)」を「照護(しょうご)したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。
・信心を覆うもの
 この光に照らされているという事実によって、「すでによく無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)すといえども」とありますように、私どもの心の「無明」の闇は、すでに破られているのです。「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を知見(ちけん)する智慧(ちえ)の明るさが欠けている状態です。それが凡夫(ぼんぶ)の迷いの根本となる煩悩なのです。
「無明」は、私どもの心のなかでは「愚癡(ぐち)」というすがたをとってはたらきます。「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。何が真実であるのか、まったくわかっていないのです。真実がわかっていないだけではなく、そのわかっていないことすら、わかっていないのです。逆に、自分にわかっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。まことに愚かというほかはありません。哀れで滑稽なすがたです。
 このような「愚癡」となってはたらく「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私どもは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。
 ところが、「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と詠われていますように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私どもの心に立ち込めて、「真実信心」を覆い隠してしまっているのです。
 「貪愛(とんない)」は「貪欲(とんよく)」とも言われますが、しがみつく愛着・欲望です。私どもは、しがみつくべきでないものにしがみついてしまいます。それは無知によって起こる心の動きです。無知ですから、しがみつけば必ず苦という結果をもたらすのに、それを知らずに、自分にとってこの上なく大切なものと錯覚して、愛着をいだくのです。
 「瞋憎(しんぞう)」は「瞋(しん)恚(に)」とも言われます。怒り憎む心です。怒りや憎しみは、自分の思い通りにならないときに起こります。私どもは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。ときには、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。
 せっかく阿弥陀仏大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受け止められるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。わざわざ自分で自分をいっそう深刻な無知にしているのです。
 「真実信心」という言葉には、少し注意が必要です。私どもの「信心」が、どうして「真実」であるのかということです。「信心」は、私どもの判断で、信じるか信じないかを決定する信心ではありません。愚かで間違いの多い私どもが決定する信心であるならば、どうして「真実」と言えるでしょうか。それは阿弥陀仏から振り向けられた信心なのです。自力によって引き起こす信心ではなくて、阿弥陀仏からいただく、他力の信心です。だから、その「信心」は「真実」なのです。
・信心を覆うとも
 阿弥陀仏は、大慈悲心によって、「真実信心」を私どもに差し向けて回向(えこう)してくださっています。煩悩の泥にまみれている私が、自分の考えや都合によって引き起こす信心であれば、それは「真実信心」ではありませんが、阿弥陀仏が私に施与(せよ)してくださっている信心ですから、それは「真実信心」なのです。
 そのような「真実信心」を私どもは、心に起こす貪り「貪愛」や憎しみ「瞋憎」などの煩悩よって、せっかくの「真実信心」を覆い隠して、それを自分から遠ざけているのです。
 しかし、「真実信心」を見失っているからといって、「真実信心」が私のところに届かなくなっているのかというと、そうではないと、親鸞聖人は教えておられます。雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさは届いているのです。
 私どもは、雲や霧がなくなったとき、初めて日光の恩恵を受けるかのように錯覚しますが、実はそうではないのです。雲や霧が立ちこめているときでも、日光の恩恵を受けているのです。煩悩がなくなったとき、大慈悲心、つまり「真実信心」に気づかされるのではありません。取り除き難い煩悩にまみれながら、「真実信心」に目覚めることがあるのです。煩悩が決して信心の妨げにはならないということでしょう。
 むしろ、日光の輝きによって、雲や霧のありさまが、はっきりと確かめられます。ちょうどそのように、常に私を照護し続ける阿弥陀仏大慈悲心によって、かえって、貪りや憎しみの心に支配されている自分の実態が、どのようなものであるかを思い知らされるのではないでしょうか。「真実信心」に背を向けている自分の姿が映し出されてくるのではないでしょうか。
 そのようなことを、親鸞聖人は、私どもに教えようとなさっているように思うのです。
正信偈の教え』古田和弘東本願寺出版

参考:正信偈の教え-みんなの偈- | 東本願寺

 

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