『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

歎異抄第二条 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり

途中で放りだしてしまった、歎異抄第二条。一ヶ月探しながら反面逃げていた。
親鸞聖人は、自分のところにまで念仏を伝えてくれた諸先輩方七人を「七高僧」と呼ばれ、『正信偈』のなかに、「龍樹」「天親」「曇鸞」「道綽」「善導」「源信」「源空(法然)」と名を挙げられて各師からいただいたことを簡潔に述べられている。そのなかでも「善導」が重要なのだと、最近思うようになってきた。『正信偈』の「善導ひとり仏の正意をあらわせり」の言葉は、伝統の中で、特に区切って目立たせて大事にお勤めする。このことをなんとか言葉にしたいのだけど、力及ばず、今日にいたります。

歎異抄第二条後半 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり


【迷林所感】
(前回の続き)
そのゆえは、念仏以外の行を励み、仏になる身が、念仏を申して、地獄におちたということであれば、(法然上人に)だまされた、という後悔もあるでしょう。

いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(けれども)どのような行も間に合わない身ですので、地獄だけが私の在り家です。

阿弥陀仏の本願が真にあるなら、釈尊の説教は、虚しい言葉ではない。釈尊の説教が真にあるなら、善導の釈尊の説教の御釈は、虚しい言葉ではない。善導の御釈が真であれば、法然のおっしゃっていたことはうそいつわりではありません。法然のおっしゃっていたことが真実であるなら、親鸞がもうすことは、また(同じであるから)、空しい無駄なことではないでしょう。

考えるところ、愚かな私の信心においてはこのようなことです。このうえは、念仏をとり信じたてまつろうとも、またすてても、それぞれのお考えです。とおっしゃいました。


歎異抄 二 
 一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

f:id:meirin41:20190709120002j:plain