『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『証巻』二―三、一味同證①

浄土真宗の、教行信はすこし遊林に話すことができるくらいにはなった。

教は「大無量寿経これなり」「法」。

信は「機」「法器(という言葉がある)」。

行は「念仏」(「選択本願念仏」)「はたらき」。「法」と「機」をつなぐもの。

え、違うかな。まあとにかく私は今そう理解している。
「信」の学びは面白かった。鱗が落ちるような思いを何度もした。
「証」がさっぱりわからん。おじいちゃんの蔵書の金子大榮先生の本を手に取った。さすがなんかわかるような気がする。でも(字が古くて)読みにくくてわからないので、ワードに書き起こしたが、読みにくくなくなってもわからない。「一緒に読む人を見つければいいよ」「私と読みませんか?」とその人が言ったので、オンラインの読書会が始まった。もう一年になる。

(448)『証巻』第二章 浄土と、大涅槃

三、一味同證
  
必至滅度の願とその成就とは、浄土はすなわち涅槃界であり、したがってそこに往生するはすなわち成仏する所以であることを顕わすものである。されば浄土は涅槃界なるが故に、そこに往生するものは、皆悉く一味同証し、また涅槃界は浄土なるがゆえに、その所にあるものは法性の常楽を受くることであろう。而してその一味同証を説くものは、次いで引用さるる『浄土論』であり、その法性の常楽を嘆ずるものは、善導の釈である。

『金子大榮選集題七巻 教行信証講読 信証の巻』(コマ書店発行昭和44年)・448頁

真宗聖典』対象281-283(2行目まで)頁

とにかくわからんので暗記するようにひらう。「浄土は涅槃界」「往生は成仏」「浄土に往生するものは一味同証」

ここからは、『真宗聖典』を開いて昨日学んだことを振り返る。

 

 『浄土論』(論註)に曰わく、「荘厳妙声功徳成就」は、「偈」に「梵声悟深遠 微妙聞十方」のゆえにと言えりと。これいかんぞ不思議なるや。『経』に言わく、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなわち正定聚に入る。」これはこれ国土の名字仏事をなす、いずくんぞ思議すべきや、と。(『真宗聖典』281頁)

 

ここに引用されているのは、「荘厳妙声功徳成就」の文。
古来、「剋念して生まれんと願えばまたまた往生を得」と訓読されずに、「剋念して生まれんと願ぜんものと、また往生を得るものとは」と訓読されたことが着眼されてきた。
『一念多念文意』にも、同例がある。

剋念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。『真宗聖典』537頁

親鸞の意は、この訓読において剋念(こくねん)願生の入正定聚を現生の益とし、亦得(やくとく)往生の入正定聚を浄土の聖聚の徳とするにあるのは明らかなことである。(続く)

 

まだ「荘厳妙声功徳成就」の途中。次は「国土の名字仏事をなす」、目下のゴールは同一念仏無別道故「荘厳眷属功徳成就」順番に学んでいけるのは金子先生のすごいところ。それにしても「国土の名字仏事をなす」ってなにか。