『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『証巻』二―三、一味同證②

併しわれらはこの論文において、特に「彼の国土の清浄安楽なるを聞き」といい、さらに「これはこれ国土の名字仏事を為す、いづくんぞ思議すべけんや」という言葉に心ひかるるものである。「浄土」という声がわれわれを救うのである。浄土の声(な)がその清浄安楽の領域になることを思わしめ、而して其所に生まれんと願わしむるのである。しかもその清浄安楽の領域に生まれんと願う時、われらは虚仮不実なる自心を捨てて念仏の信楽に帰し、すなわち正定聚に入らしめらるるのである。誠に直接にわれわれを救うものは、如来招喚の声であろう。しかしその如来招喚の声が、われわれの心胸に響く所以は、それが浄土へと招喚するの声なるがためではないであろうか。すなわち如来の声は単なる如来の声ではなくして、実にそのまま浄土の声である。如来は浄土の声において衆生をして願生せしめ、浄土の声において称名念仏せしめ、浄土の声において自力の心を離れしめ、浄土の声において正定聚に入らしむるのである。それゆえにもし願生しつつ念仏せぬもの、念仏しつつ自力心を離れぬものは、真に浄土の声を聞かざるものといわねばならぬ。ただ浄土という言葉を知っているのみで、「彼の国土の清浄安楽」なるを聞かざるものである。清浄安楽はすなわち涅槃の妙境である。涅槃の妙境においては、いかで智愚善悪の簡びがあろう。しかも智愚善悪の簡びなきところは、すなわち自力疑心の永遠に生るべからざるところである。

教行信証講読』信証の巻(『金子大榮選集第七巻』)(コマ書店発行昭和44年)・448頁

金子先生が心惹かれるという「これはこれ国土の名字仏事を為す、いづくんぞ思議すべけんや」の現代語訳を当たる。

これによって見れば、国土の名字(なまえ)が仏の衆生教化の事(いとなみ)をするのである。どうして思い議(はか)ることができようか。

『解読教行信証』(東本願寺出版部発行)340頁

そして暗記する。

「「浄土」という声がわれわれを救う」

「浄土の声(な)がその清浄安楽の領域になることを思わしめ、生まれんと願わしむる」

「清浄安楽の領域に生まれんと願う時、われらは虚仮不実なる自心を捨てて念仏の信楽に帰し、すなわち正定聚に入らしめらるる」

「われわれを救うものは、如来招喚の声」「如来招喚の声は、浄土へと招喚するの声」「如来の声は単なる如来の声ではなく、浄土の声」

如来は浄土の声において衆生をして願生せしめ、浄土の声において称名念仏せしめ、浄土の声において自力の心を離れしめ、浄土の声において正定聚に入らしむるのである。

 

それゆえにもし願生しつつ念仏せぬもの、念仏しつつ自力心を離れぬものは、真に浄土の声を聞かざるものといわねばならぬ。ただ浄土という言葉を知っているのみで、「彼の国土の清浄安楽」なるを聞かざるものである。清浄安楽はすなわち涅槃の妙境である。涅槃の妙境においては、いかで智愚善悪の簡びがあろう。しかも智愚善悪の簡びなきところは、すなわち自力疑心の永遠に生るべからざるところである。

 

繰り返し読んだらほんわかとわかるものですね。わかったつもりになれる、ということか。③に続きます。