『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん

常勤補導試験を最後に落ちたのは30歳のときだった。

その年の3月に結婚した。8月に修練スタッフになった。一度だけの。大谷大学の安居を受講した。これも一度きり。班別座談の担当が木越康先生だった。

しばらくして妊娠に気づいた。

翌年3月4日に父が亡くなった。61歳だった。二週間後に娘が生まれた。無我夢中で過ごした。五里霧中だったかもしれない。娘が保育園児だったときもブログを書いていた。なんかよくわからんけど会いに来られて待ち伏せみたいなこともあって怖くなったり、書いた言葉について「訴えますよ」なんて書かれたり、いろいろあってやめた。なにがあったかは忘れた。

41歳のときにまたブログを始めた。2018年6月に弥勒と出遇って、2019年11月8日に弥勒は浄土へ帰った。2022年10月、弥勒の命日までに少しずつ掃除をしようと思う。

 

常勤補導試験をはじめて受けて落ちたのは24歳の時だと思う。たしか、「嘱託補導を経験してください」と言われた。23歳の3月21日春のお彼岸に「本山奉仕団」に参加して、補導になってみたいと思ったのだった。嘱託補導をしていていろんな出会いがあった。(途中2年ほど開くが)34歳まで在籍した。はてなブログを教えてもらったのは常勤補導のIさんだった。Tさん、Tさん、Kさん、Iさん、Sさん、Oさん、Mくん、Fさん・・・

 

思い出してまた書きたくなったら書くかもしれない。

遅いよな。でも今なら受けられるかもしれない。

だけど2年も3年も10年も、やりたくてもできない。

25年越しの夢。叶うなんて思っていなかった。常勤補導一人ひとりを「私は採用してもらえなくてこの人は受かった人なんだ」と思って見てきた。それは今も変わらない。私を採用してほしいという思いももしかしたら変わらないのかもしれない。

それはなぜか考えていた。

おじいちゃんが喜んだのだった。

 

称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん

実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえに心淳からざるべし。これと相違せるを「如実修行相応」と名づく。このゆえに論主建めに「我一心」と言えり、と。

教行信証』「信巻」『真宗聖典』214頁

 

不如実修行(真実の修行でない)と、名義不相応(名の意義に相応(あいかな)っていない)とによるからである。

如来は真実そのものの身であり、衆生のためにある身であることを知らないからである。

これを、如来は「実相身(じつそうしん)」「為物身(いもつしん)」という。

真実が淳くないから決定がない。決定がないから念(おも)いが相続しない。また念いが相続しないから決定の信を得ない。決定の信を得ないから信が淳くないのである。これと相違するあり方を「如実修行相応」と名づける。だから論主は建(はじ)めに「我一心」と言われたのである。

『解読教行信証』(東本願寺出版部発行)・168頁

(この意訳はいかがなものか)

信巻に「このゆえに論主建めに「我一心」と言えり。」があと二回出てくる。法然上人が「三経一論」とおさえながら、『選択本願念仏集』に書かれなかった『浄土論』。我一心」を繰り返した「信巻」は、親鸞聖人自身と人間を表したものだと思っている。