『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『証巻』二―三、一味同證③

それ故に浄土の声が、その一味同証の妙境なることを顕わすものである。而してかく浄土が一味同証の境なる所以としてそこに知らるるものは、その浄土を住持する如来の力である。これに依りて次いで荘厳主功徳成就が思われるのである。されば「彼の安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや」という言葉は、弥陀の住持力に依りて浄土の徳を顕すものであらねばならぬ。したがって住持の語を「住は不異不滅に名く、持は不散不失に名く」と解して、不朽薬の例を挙げ、「若し人、一たび安楽浄土に生ずれば、後の時に意(こころ)三界に生まれて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随って三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子、畢竟して朽ちず」と説かれることは、菩薩還相の徳が弥陀住持の力によることを顕わすものであることはいうまでもないことであるが、併しそれは同時にまた彼の仏国の徳を彰わすものではないであろうか。浄土を一味同証の境とするが故に、定散の自力を捨てて正定聚に入り、浄土を一味同証の家郷とするが故に、生死海にありて無上菩提心を捨てない。かくして浄土の声が往還の徳を成就するのである。
教行信証講読』信証の巻(『金子大榮選集第七巻』)(コマ書店発行昭和44年)・448頁

うん、なにからいきますか。『真宗聖典』282頁を開く。

荘厳主功徳成就

「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。(『真宗聖典』282頁)

『浄土論』確認『真宗聖典』136、139、140頁

仏国土の荘厳功徳成就を観察すというは、十七種あり、(略)十二には荘厳主功徳成就

 

「彼の安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや」弥陀の住持力に依りて浄土の徳を顕す

 

住は不異不滅に名く、持は不散不失に名く

 

不朽薬(ふきゅうやく・モケモケ?)

不朽薬を種に塗ると、水に在くに蘭(みだ)れず(腐らないということ)、火に在くに燋がれず(燃えない)、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。(まあそうでしょう、朽ちない薬ですから)

 

「若し人、一たび安楽浄土に生ずれば、後の時に意(こころ)三界に生まれて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随って三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子、畢竟して朽ちず」と説かれることは、菩薩還相の徳が弥陀住持の力によることを顕わすもの

ふむふむ。一たび安楽浄土に生ずれば、還相の菩薩の徳は弥陀住(不異不滅)持(不散不失)の力によるので、三界雑生の火の中に生まれても、水に腐らない(欲とか煩悩のことか)火に焼かれない(怒りとか煩悩のことか)朽ちず。

 

それは同時にまた彼の仏国の徳を彰わす

浄土を一味同証の境とするが故に、定散の自力を捨てて正定聚に入り、浄土を一味同証の家郷とするが故に、生死海にありて無上菩提心を捨てない。かくして浄土の声が往還の徳を成就するのである。

暗記。

さらっとは見た。