『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

汝、空過(くうか)することなかれ

珍しく眠れないので、長くブログを休んでいた時に思っていたことを書きます。

お通夜でお話を聞きました。

 

私が行っていた大谷専修学院の信国淳(あつし)院長先生が、

  汝、空過(くうか)することなかれ

と繰り返しおっしゃっていました、と。

 

通夜説法は導師がします。お手次のお寺さんとでもいえばいいのかな。

お通夜に数人の僧侶が招待されても、通夜説法の間は僧侶控室で待っていることもあるけれど、私が通夜説法をするときは、僧侶仲間にも弔問のみなさんにまじって聞いていただくことが多いです。

その夜は、お通夜のお勤め(お経や正信偈をあげること)をお願いされたのですが、

お手次の寺ではないので、控室で終わるのを待つといいながらロビーでお話を聞きました。

控室では聞こえなかったからです。ロビーにたむっろている受付のおっさんたちうるさいなぁと思いながら。

はっきり聞きとった「汝空過することなかれ」という言葉は、専修学院の後輩である私にとって懐かしい言葉であり、はっとする言葉でもありました。

お葬式では、男性が亡くなった時は「本願力にあいぬれば空しく過ぐるひとぞなき」というご和讃を勤めることが多いです。

 

  本願力にあいぬれば

  むなしくすぐるひとぞなき

  功徳の宝海みちみちて

  煩悩の濁水へだてなし

 

  (如来浄華の聖衆は)

  正覚の はなより化生して

  衆生の願楽ことごとく

  すみやかにとく満足す

 

当然このご和讃にはどんな意味があるのかなと、繰り返し考えるもんですが、

そもそもなんでこのご和讃なんだろうなぁとしばらく思っていたところでした。

亡くなった人を通して、「汝空過することなかれ」と呼びかけられる場、

あるいは、私自身がいま空しく過ぎているのではないか、と問われる場、

それが葬式なのかもしれないな。と、ちょっとした答えを得たのでした。

満足できなくなったらまた、同じことを問い返しますが。

 

しかし、なんで眠れないかな、鼻の頭がちびたいからかな、

18:30から23:00まで芋焼酎飲んでたからかな。