『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「念仏すすめしむ」報恩講に思うこと(後編)

後半

 この『真宗の教えと宗門の歩み』という本にまんでいいがにまとまっていましたので、今日の資料に記載しました。

 釈尊(紀元前四六三-三八三年頃)は北インドの現在のネパール南部ルンビニーというところにお生まれになりました。俗名をゴータマ・シッタールタ太子といいます。 

釈尊の出家について「四門出遊」の物語が伝えられています。大使が王城の東門を出て行かれたとき老人を、南門を出られたとき病人を見ました。また、西門を出られると死者を送る葬列にあわれました。このようなことが太子の心に誰もさけることのできない生老病死の苦痛を呼び起こしたのです。次に北門を出られたとき、静かにあるいていく沙門(出家者)を見られました。このことをきっかけとして、生老病死の苦しみを超えることを求めて大使は出家をこころざしました。そして、ついに二十九歳のとき、王城をすて、王である父がつかわした五人の家臣とともに山に入って六年の苦行生活をつまれました。しかし、苦行では人生の苦悩は解決できないことを知り、ひとり苦行をすてて、菩提樹の下に座って瞑想をかさねられたのです。その四十九日目の暁に、さとりをひらかれました。ときに三十五歳でした。

さとりを開かれた釈尊は、かつてともに修行した五人の比丘(修行僧)のいる鹿野苑(ろくやおん)をたずね、説法をされました。すると、この五人の比丘も釈尊と同じく心の目覚めをえました。この出来事において人類の歴史の上に初めて、真理に目覚めた者(仏=ブッダ)によって、真実の教え(法=ダルマ)が説かれ、仏の教えに生きる者の集まり(僧=サンガ)が誕生したのでした。仏教ではこの仏・法・僧を宝とし(三宝・さんぼう)、帰依すること(三帰依・さんきえ)を仏弟子の基本とします。

この本は、ここにまんでまいがにまとまっとるから、これから「真宗門徒講座」のテキストにしたらいいね、と「真宗門徒講座」の担当者に伝えましたら、「三帰依がわかりやすく書いてありますね、テキスト候補にいいと思います」という言葉をいただきました。

 

釈尊は、八十歳でお亡くなりになるまでの四十五年間、各地を歩かれ、教えを説かれました。その教えは八万四千といわれるほどたくさんあります。親鸞聖人、は、釈尊をたたえて「正信偈」に、(『真宗聖典』204頁、赤本8頁)

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

五濁悪時群生海 応信如来如実言

如来、世に興出したまうゆえは、 ただ弥陀本願海を説かんとなり。

五濁悪時の群生海、 如来如実の言を信ずべし。

 

【現代語訳】 釈尊や諸仏が世に現れるのは、ただ、この海のように深く広い本願を説こうとされるからです。世が濁り、悪がさかんな時代をともに生きる者たちよ、釈尊や諸仏のまことのことばを信じましょう。 

と、阿弥陀仏の本願を説くことこそが釈尊の本懐(ほんがい・本当の願い)であったとうたっておられます。この釈尊の本懐を明らかにしてくださった方々こそ七高僧です。

 

お釈迦(釈尊)様と、阿弥陀様(阿弥陀仏)と、親鸞(親鸞聖人)さんと、なんかよくわからんと、みなさんの方はそんなことをおっしゃらんかもしれませんが、なんかよくわからん方にも伝わるくらい、いいがにまとまっとるなと思いました。

如来、世に興出したまうゆえは、 ただ弥陀本願海を説かんとなり。

五濁悪時の群生海、 如来如実の言を信ずべし。

 

私のおじいちゃんの節談説教が聞こえる思いがします。お釈迦様がこの世にお生まれになったのはなんのためであるか、ただ阿弥陀仏の本願を教えるためであった。「南無阿弥陀仏」を教えるためであった。五濁悪時の群生海、これはわれわれのこと。如来如実の言を信ずべし。念仏やぞ。「本願海」「群生海」「ねむたいかい」そう私に言い聞かせたおじいちゃんは、節談説教の説教者で、「ただ念仏やぞ」と教えてくれました。念仏より他に救われる道はない。そんなことを繰り返し聞いてきました。

もう一つ、くり返し帰る言葉があります。

 

「生活の中で 念仏するのでなく 念仏の上に 生活がいとなまれる」和田稠先生の言葉です。

 

法語カレンダーにもなった言葉で、法語カレンダー随想集の、「今日のことば」に熊本の保々真量さんが書かれていたことばをお伝えします。

今日のことば  

私が三十代に入った頃、和田稠先生のお話をよく聴かせていただいていました。個人的な悩みを自分ではどうすることもできず、先生が九州に来られると聞くと、会場に足を運んでいました。

 

そんなある日、先生の法話が終わった後、控室にうかがった時のことです。いつもはこちらからお尋ねをすることが多かったのですが、その時は先生から「君は苦しみ悩みがあって、それをなくしたいと思ってここへ来とるんだろう」と問われました。そのとおりだったのですが、あまりにも唐突だったこともあり、私は何も言えずにいました。さらに先生は「あのなあ、苦悩する者を人間というんや」と言われ、私は(だから、その苦悩を取り除くことを求めて、ここに聞きに来てるんだ)と思いながらも、先生の言われようとされていることが飲み込めず困惑し、ずっと沈黙していました。そんな私を見て、先生はダメを押すようにこう言われたのです。「じゃあ、もういっぺん聞くが、君は隣で泣いとる人がおっても、苦しんでいる人がおっても、自分だけは悩みもせず苦しみもせず、そんなロボットみたいな人間になりたいんか」と。

 

驚きのあまり、私は言葉が出ませんでした。自分が意識して求めていたことが、この身が本当に求めていることとは全く違っていたんだ、という驚き。何かが自分の中でひっくり返ったような、もっと言えば自分そのものがひっくり返されたような不思議な感覚でした。

 

私たちは、日頃、聴聞をする時に、「ためになるお話を聞きたい」「今日の話は参考になった」というように、仏法を利用するような聞き方をしていることがあります。さらに、念仏することで、迷いをなくしていこう、悩みを解決しようという思いで聞いているのではないでしょうか。

 

聴聞の原点は、個人的な悩みや苦しみから始まります。むしろ、苦悩を抜きにした聞法は、精神修養や教養としての学びになりやすく、それは理解が増えた分だけ、他人を見下したり、自分の名利を満たすものになったりします。そうなると、学ばない方がまだましだということにもなりかねません。

 

しかし私たちは、個人的な苦悩をなくすことだけでは終えていけない身を抱えています。安田理深先生が「私たちはもっともっと悩まねばなりません。人類のさまざまな問題が私たちに圧しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできない。むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です」とおっしゃったと聞いています。

 

「生活の中で念仏する」ということは、念仏を手段にして、苦悩をなくそう、たすかろうとしている私たちのすがたとも言えるのではないでしょうか。しかし、それは本当の意味で私たちのすくいにはならない。むしろ、そういう個人的な思いを打ち破っていくような形で、私たちを歩ませるような如来の呼び声〈念仏〉が届く。その念仏のはたらきに出遇い、歩んでいるすがたを「念仏の上に生活がいとなまれる」と表現されているように思います。

『今日のことば 2015年(12月)』

【教えにふれる読み物(今日のことば)】生活の中で 念仏するのでなく 念仏の上に 生活がいとなまれる | しんらん交流館HP 浄土真宗ドットインフォ (jodo-shinshu.info)

 

報恩講で読まれる『御伝鈔』に、親鸞聖人のご臨終の姿が書かれます。

聖人弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽齢九旬に満ちたまう。

 

私のおじいちゃんは同じように亡くなっていきました。おじいちゃんのように死にたい、生きたいと思うと、和田先生の言葉、紹介した保々さんが書かれていたことが頭をもたげます。そうして、その間でずっと今も、お念仏を喜んだおじいちゃんと、真実を求めた和田先生の間でずっともんもんとしています。報恩講は改悔といって、一年に一度自分をひっくり返して洗いざらいさらけだすような場なのだと聞いてきました。みなさんおひとりおひとりの報恩講も、洗いざらい我が身を問うような時であればよいなと思います。