『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『歎異抄』第四条【私訳】

 『歎異抄』第四条と第五条は続いていると友人が言った。そうに違いないけれども、二つについて自分は書けないことに昨日気付いた。
 昨日書けなかったので語句の意味を確認する。『歎異抄』本文も岩波本から引用する。


 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかに、いとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそふらふべきと、云々

 

(1)聖道-聖者の道。この世にて覚りを開くことを期するもの。
(2)浄土-凡人の法。浄土の往生を願うもの。
(3)もの-生きとし生けるもの
(4)ありがたし-まれである。
(5)また-法要本による。永正本はなし。
(6)いそぎ-まずもって。
(7)不敏-気の毒。
(8)始終なし-一貫しない。
歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)47頁

 

 金子先生は、「聖道」を「この世にて覚りを開くことを期するもの」と書く。「聖道門」と言っていいと思う。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」とあるように「聖道門」に対するのは「浄土門」。佐野明弘師が繰り返し話されるのは「浄土教はこの世においてたすからない自覚がある」(10.3④確認してからまた書く)。金子先生の言葉に当てはめると、「浄土」(浄土教)は、「この世にて覚りを開く期なし」。「期」は期待すること。だから「浄土の往生を願う」。それは、「この世」「今生」を浄土にする教えではない。
 「法要本」「永正本」について、以下のように書かれている。

 この抄には古写本・古版本ともに数本ずつ存し、しかもいずれもみな幾分ずつ相違しているようである。『歎異抄』(岩波書店)28頁

 「法要本」は西本願寺開版。「永正本」は「端の坊永正本」(大谷大学所蔵)。ちなみに大谷派の『真宗聖典』の『歎異抄』は「永正本」を底本にしている。

 もう少しいうと、『真宗聖典』と、岩波本『歎異抄』は違いがある。金子先生は、西本願寺開版の「法要本」を底本にしている。私は大谷専修学院で、岩波本『歎異抄』を「、。」まで暗記する課題をいただいた。だから『真宗聖典』と違うのは知っていた。

 金子先生の意味を参考にして、現代語訳する。

【私訳】

慈悲に聖道・浄土の変わり目がある。聖道の慈悲というのは、生きとし生けるものを慈しみ、苦を悲しみ、育てる。けれども、思うようにすくい遂げることは、極めてまれである。また浄土の慈悲というのは、念仏して、まずもって仏になって、大慈大悲心をもって、仏の思うように生きとし生けるものを利益するをいうべきである。
今生に、どんなに、愛おしみ、気の毒に思っても、(かわいそうだからなんとかしたいと思っても、)存知のごとくすくい難いので、(たすけ遂げることがほとんど出来ないので、)この慈悲(愛おしみ、なんとかしたいと思う)は一貫していない。そうであるから、念仏申すのみが、末通る(一貫した)大慈悲心なのであります。云々

 

「仏となる」とはどんなことであろうか。それはすでにいうごとく報土に往生することである。不安と苦悩とのない境地(涅槃)にいたることである。それが如来と往生人との同証する境地である。しかし仏となるということには、そこに人間の理想が満たされるという意味があるようである。仏とは覚を意味するから人が人である意味を覚り、人となるべき道を行い、真の人となることを仏となるというのであろう。この意味において「仏となる」とは、人間の理想を満足することであらねばならない。(続く)

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)18頁