常念を修するは、すなわちこれ恒に懴悔する人なり。
顕浄土真実教行証文類 化身土・本巻『真宗聖典』359頁
【語句の意味】
常(つね)に念仏を修めるのは、まさしく恒(つね)に懴悔する人である。
清沢満之師の有名な言葉が浮かぶ。
「我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ」(〔他力の救済」『清沢満之全集』第六巻、329頁)
【参考】
我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学 (otani.ac.jp)
阿弥陀仏をおもうとき(他力の救済を念するとき)、しらされるのはいつも、我が身の懴悔ではないか。それを清沢師は、「我が世に処するの道開け」とおっしゃった。
言葉が足りないと思いますが、最後に、
仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
く(悔)ゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
已上二十三首仏(智)不思議の弥陀の御ちかいをうたがうつみとがをしらせんとあらわせるなり
愚禿善信作
また、「つねに」ということに「常」と「恒」の違いがあるという。