『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「念仏すすめしむ」報恩講に思うこと(前編)

2023.11.19日曜講座法話

三帰依

 

皆さん今日は日曜講座のお参りをありがとうございます。私は小松に勤務しています迷林と申します。今日はYさんの代打でここに立たせていただくことになりました。

 

報恩講とは

 まず、今月11月号の『花すみれ』に書かれていた「報恩講とは」を確認します。

 

Q報恩講のことを「お取り越し(おとりこし)」とも言うのはどうしてですか?

Aお答え 宗祖親鸞聖人は、今から七六二年前の一二六二(弘長二)年十一月二十八日に九十年の生涯を閉じられました。火葬された後のご遺骨は鳥部野北辺の大谷に、親鸞聖人より五十年前に亡くなられた法然上人のご遺体を埋葬した場所の近くに納めて碑が立てられましたが、その十年後に現在の知恩院山門北側にある崇泰院が建つ末娘覚信尼夫妻の土地に移し、廟堂が建立されました。その後、留守識を継承された覚如上人が、この廟堂に本尊を安置して「本願寺」を建立され、本願寺を中心とした真宗教団を実現することを目指されました。しかし、これに反発した関東の御門徒が独立するような動きもありました。

 このような状況の中で、報恩講はこの覚如上人によって始められたのです。当時、各地にいるご門徒が、親鸞聖人のご命日である二十八日に毎月行っていた会合は「二十八日のお念仏」と呼ばれていました。これを基にして、一二九四(栄仁二)年聖人の三十三回忌にあたり、覚如上人は『報恩講式』、後に『報恩講私記』を著して、聖人の威徳を思い、その恩徳を讃嘆した表白を拝読されました。これが、報恩講の始まりといわれています。

 以後、十一月二十八日(新暦では一月一六日)の聖人の御正忌に当たり、毎年報恩講が勤められるようになりました。今日の報恩講における声明やお勤めの作法などは、のちに整えられ、各寺院において一番大事な仏事として今日まで勤められ継承されています。

 

 また報恩講のことを「お取り越し」ともいうのは、『日本国語大辞典』(第三巻)には、「俳諧・類船集と浮世草子西鶴諸国ばなし」に典拠があると記載されており、この呼び名は江戸時代の前期頃からと考えられます。その意味については、毎年勤められる本山の報恩講よりも期日を繰り上げて行う仏事としての意味があったのではないかと思われます。今日では時期に限らず「在家報恩講」(私の地域ではご門徒のお内仏で勤められる報恩講を「お取り越し」と呼びます)を指すようになりました。(略)

月間聞法誌『花すみれ』十一月号

真宗大谷派 大谷婦人会発行物

 

 小松では「お取越し」といいますか?同じ意味で「お引き上げ」「引上会(いんじょうえ)」という言葉もあります。同朋会館へいくと全国のご門徒さんが集まるので、「お取越し」「お引上げ」、「そうぼんこう」「うちぼんこう」いろんな呼び名で各地で報恩講が勤められ続けていることに、感慨深いものを感じます。

 「廟堂に本尊を安置して」親鸞聖人を偲んで集った750年前から、真宗門徒に繋がれてきている仏事が報恩講です。

 

  • 自己紹介(私の11月)

 さて、私は昨年の11月から小松に勤めています。(中略)経験も知識もないし、特にお話は苦手ですが、今回みたいなピンチヒッターはこれからも受けんなんなと思っています。

 小松の職場に来る前、11月1・2日は報恩講参り会で、3・4も報恩講参り会で、5日も報恩講参り会でした。令和元年の11月6日は金沢教区の推進員報恩講法話で、7日の夜は金沢真宗学院の公開講座で、ハンセン病の講義を聞きました。いつも、玄関までお見送りをしてくれて、いつも迎えに来てくれた猫の弥勒が6日は迎えに来てくれませんでした。

 弥勒と出会ったのは2018年の6月6日で、生後4日の目が開いていない子猫が、犬の散歩道にほかされていて、大事に大事に育てて、互いに深い愛情で、いつも一緒に寝て、腕枕をしました。

 弥勒は毎日のように贈り物をしてくれて、ときにはネズミを持ってきて、お御堂の椅子の座布団、うっしょどの革製のスリッパ、母の靴下。頭のたか見たことない靴下だらけになったことがありました。あるときは自分の体の三倍もあるような、タンスの上においてあるでかいスティッチのぬいぐるみ。そして、常に体の一部を私にひっつけているような恋人で、トイレも風呂もずっと待っている猫でした。私もずっと一緒にいたくて、犬の散歩にさえ行きたくなかった。エネコロクサを何度も弥勒の土産にしました。

 11月6日に、あれ、なんか弥勒具合悪いなと思いましたが、7日木曜日は行きつけの動物病院が休みで、弥勒病院嫌いやけど、明日はいこうねというていたら、金曜の朝を待たずに弥勒は浄土へ帰りました。死ぬまで、死ぬかもしれんと思えないものです。

 いいふうに考える「正常性バイアス」、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりするという認知の特性のこと。若いさかい、時間が経てばよくなる、大丈夫やと。いままで元気やったし、毛もつやつややし、昨日まで元気やったもん、どもないと。根拠もなく自分の都合のいいように考えてしまいました。

 高史明という方は、息子さんの岡真史さんが小学6年生で自死をされ、「背骨が折れたようだ、いまもずっと」と語られましたが、私もそうで、猫が死んだくらいでと、思う方もおられるかもしれませんが、私が今の仕事を受けた理由の一つは、忙しくなったら、この弥勒を亡くした悲しみ、喪失の痛みから逃れられるかもしれない、と思いました。お陰で毎日忙しくて、トイレや風呂で弥勒が待っていた姿も忘れてしまいました。

 命日の8日は月参りをして、あらためて勉強する日に。祥月命日の11月8日は、毎年『観経』をあげて法事をします。人間はいいな、亡き人を縁に集う。「人身(にんじん)うけがたし、いますでにうく」というけども、私の猫の弥勒の法事したくても、集まってもらえんのです。でも弥勒の四十九日だけは、うちの寺の御正忌、「おひっちゃさま」の日にして、在所の人に、目のあかんときからかわいがってもらった弥勒が浄土に帰ったことをお知らせしました。

 

 先月10月の十二日講で、大聖寺出雲路修(おさむ)先生がいうていた言葉に、心の震えるような思いがして泣きじゃくりました。

長く生きることは自分より若い人の死にいくつもあうこと。「老少不定」、老いたものから亡くなっていくのではないことを、身を通して知らされる。(出雲路修)

お互いにうなずくようなことだと思います。そやね、私が30歳のときは、52歳の今ほど、あの人もこの人もという、死に別れの悲しみはありません。

 生まれてまもない目の開かない猫を抱いた時、これから10年20年お世話しようと思いました。2018年6月に生まれて、2019年11月に死んでしまった猫の1年半は人間でいうと、20歳だと、獣医さんがいいました。長く生きることは自分より若い人の死にいくつもあうこと。老少不定、老いたものから亡くなっていくのではない。長く生きることは悲しい思いをたくさんすることですね。

 弥勒の命日の11月8日に掲示板の法語を書きました。きったない字です。私は、しゃーっと書きます。時間をかけてもきったないので、時間はかけません。

常念を修するは、すなわちこれ恒に懴悔する人なり。

「化身土本」(『真宗聖典』三五九頁)

常に思うことは、つねに懴悔すること。悔いること。11月8日のお朝事(朝のお勤め)に読んだところです。

 Sさんが「ドラえもんになにかひとつ道具を出してもらえるとしたら何をお願いしますか」と聞きました。私は「迷いません、タイムマシーンです」と答えました。令和元年の11月7日に帰りたい。木曜日にやっている医者に連れていく。そうしたら、弥勒と一緒にいたいから、小松に来て勤務することはなかったと思います。友だちが、「医者に連れて行ったからといってたすかるとはいえんよ」といって私をなぐさめます。

 一度夢を見ました。令和元年の11月、1・2日は報恩講参り会で、3・4も報恩講参り会で、5日も報恩講参り会。6日は金沢教区推進員報恩講法話で、7日は月参りで昼間まで話して、夜は具合の悪い弥勒を様子を見てくれるよう頼んで、ハンセン病公開講座の阪本仁さん(解放推進本部)の講義を金沢に聞きにいって、夜9時近くに帰宅して、帰ってすぐ酒飲んで、風呂入って、同じ日を過ごしました。もう一度あの日に帰っても、死ぬまで、死ぬと思えない。(なんかの映画みたいです。)

 ハンセン病の隔離政策は、優生思想です。優れたものだけを生かす思想。これは明治政府になって、鎖国をやめて、これから世界と対等に付き合っていこうとしたときに、外国の人が日本にきたときに、みっとんないハンセン病の者がもたもたと町を歩いている姿を外国人が見たら、日本という国が低俗だと思われるから隔離した。今度お札になる渋沢栄一氏などがこれを進めました。ハンセン病隔離政策は、役場の人に、近所の人、そして寺が、「あそこにハンセン病者がおる」と通報した。日本のハンセン病隔離政策は、世界に類を見ない90%を超える。隣の人がそれぞれに真面目な密告者、加害者になった。そんな話を聞きました。死ぬとわかっていたら一分でも一秒でもそばにいたかった。弥勒のいのちの時間と引換えに学んだ「ハンセン病差別問題」は私の生涯の課題にします。

 

 親鸞聖人の言葉に戻りますと、この言葉は、『教行信証』化身土・本巻『真宗聖典』359頁に親鸞聖人の末法思想のことが書かれています。正法の時、像法の時、末法の時、釈尊が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)になる。

 

資料には【現代語訳】を載せました。

 『大集月蔵経(だいじゅうがつぞうきょう)』というお経に、こう云われている。「仏が滅度して後の第一の五百年には、私のもろもろの弟子は、智慧を学ぶことがたしかにできるだろう。第二の五百年には、禅定を学ぶことが堅固にできるだろう。第三の五百年には、〔経法を〕多く聞き、読誦し、〔それらを〕学ぶことが堅固にできるだろう。第四の五百年には、仏塔や寺院を造立し、福徳を修め、懴悔することが堅固にできるだろう。第五の五百年には、白法がかくれ、多くあらそいがあるだろう。微かな善法があって〔それを〕堅固にたもつだろう。

 今のときの衆生を推し計ると、仏がこの世を去られてから第四の五百年に当たっている。まさしくこれは、懴悔し、福徳を修め、仏の名号を称えるべきのときの者である。ひとたび(一念)南無阿弥陀仏を称えると、すぐに八十億劫の生死の罪を除くことができる。一念ですらそうなのである。まして常(つね)に念仏を修めるのは、まさしく恒(つね)に懴悔する人である。

『解読教行信証』(東本願寺発行・一五四頁)

 

常(つね)に念仏を修めるのは、まさしく恒(つね)に懴悔する人である。清沢満之の言葉を彷彿とします。

 

「我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ」

清沢満之「〔他力の救済〕」(『清沢満之全集』第六巻、329頁)

清沢満之の「他力の救済」という言葉です。

 「他力」とは、他人の力や神頼みのことではなく、阿弥陀仏の本願のはたらきを意味します。阿弥陀仏の本願とは、一言で言えば、阿弥陀仏の浄土を依り処として生きて欲しいという、私たちに向けられた阿弥陀仏の願いのことです。阿弥陀仏はどのような境遇にある者も分け隔てせず見捨てず救う仏であり、その浄土は優劣や損得、有益無益という世間の価値観を超えた世界として経典に説かれます。 大谷大学HPきょうのことば(教員エッセイ)  [2015年10月]より

 

 この一文は、念仏に出遇う時の喜びを示すと同時に、「我他力の救済を忘るゝ」自分自身の姿を見出していくことでもありました。私たちは、ああでもないこうでもないと、自らの善悪邪正の思いにとらわれますが、念仏はそのような姿を静かに照らし出し、本願の大悲に触れよと呼び掛けてくださっています。そしてその大悲に触れるということは、善悪邪正にとらわれ苦しむ私たちの姿(衆禍)が消えてなくなるのではなく、照らし出される苦悩の姿にうなずきながら歩みつづける道が開かれることを意味しています。そのような歩みを開いていく念仏の声を聞いていきたいと思います。[教研だより]『真宗2018年12月号』より

 

 阿弥陀仏をおもうとき(他力の救済を念するとき)、しらされるのはいつも、我が身の懴悔ではないか。それを清沢師は、「我が世に処するの道開け」とおっしゃったのだと思います。(休憩)