『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『歎異抄』第四条 慈悲に聖道浄土のかわりめあり・第五条 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。


 一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

 一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

歎異抄』(『真宗聖典』628頁)  真宗聖典検索 Web site (higashihonganji.or.jp)

 慈悲は人間の理想である。さればそれを現実にするこそ聖なる道であろう。しかしそれは容易に行われない。その能力のない我らにあっては、まずもって浄土に往生し、仏の自在力をえてのちにと期するほかないのである。

 それは慈悲の心を捨てるものではない。浄土を願う者は、すでに自他の業縁を悲しむ心があるのである。したがって念仏もうす身には、深く如来(にょらい)の大慈大悲心が感ぜられているのである。それ故にこの大慈大悲の実現を、「仏になりて」と期するのである。

 すべての人の救われる法において、自身は救われ、自身の救われる法を身証して、すべての人の救われる道は見開かれるのである。

5

 亡き父母を慕(しと)うてその追福を思うのは、子孫の至情である。けれどもすでに死生の境を異にしている。そこには凡夫自力の及ぶことのできないものがあるのである。さらに翻って思うに「一切の有情はみなもて世々生々父母兄弟」である。それこそ仏教の人間観として念仏者の忘るべからざることである。されば念仏者は、急ぎ仏となって、まず縁ある者を済(すく)うべきである。念仏はそのために与えられたものであって、父母の追善(ついぜん)の為に用いらるべきものではない。そうすることは他力の法を自力の善となすものとなるからである。

 これは念仏の徳を限定するものではない。かえって死生の境を超(こ)えて、無限に開け行く道を思い知らしめるものである。

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)48頁

 第四条と第五条はつながっていると友人はいった。なるほど第四条の「念仏して、いそぎ仏になりて」と第五条の「この順次生に仏になりて」は同じようなことであろう。彼は、これらは誰かに聞かれて親鸞聖人が答えたことなのだと理解しているとも話した。そんなふうに考えたことがなかったので、感激した。「念仏して、いそぎ仏になりて」は「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」につながる。

 今回の金子先生の言葉にはピンとこない。「仏になりて」の理解が違うからである。「第四条の聖道の慈悲はわかるけれども、浄土の慈悲はわからない」という方を何人かみたけれど、これは第四条を語れないと思う。

親鸞聖人の和讃(わさん・うた)がある。

25 五十六億七千万
  弥勒菩薩はとしをへん
  まことの信心うるひとは
  このたびさとりをひらくべし
正像末和讃』(『真宗聖典』502頁) 

五十六億七千万の後、弥勒菩薩はようやく仏の覚りを開くのです。しかし、真の信心を獲る人は、すぐさま覚りに触れるのです。

正像末和讃を読む―悲泣にはじまる仏道―』木越康著(真宗大谷派大阪教務所発行)・135頁

仏になって人をすくうというのは、念仏の信心を獲ること。今回はこれだけにします。

 

木越康先生の本は「法蔵館」で買いました。「法蔵館」はサンクチュアリのように思うのです。東本願寺にお参りしたら御影堂門の信号を渡ってすぐのところにあります。

法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年 (hozokan.co.jp)