『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『歎異抄』 金子大栄校注

「仏となる」とは

(前回同文)「仏となる」とはどんなことであろうか。それはすでにいうごとく報土に往生することである。不安と苦悩とのない境地(涅槃)にいたることである。それが如来と往生人との同証する境地である。しかし仏となるということには、そこに人間の理想が満た…

『歎異抄』第四条【私訳】

『歎異抄』第四条と第五条は続いていると友人が言った。そうに違いないけれども、二つについて自分は書けないことに昨日気付いた。 昨日書けなかったので語句の意味を確認する。『歎異抄』本文も岩波本から引用する。 四 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり…

『歎異抄』第四条 慈悲に聖道浄土のかわりめあり・第五条 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。

四 一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうが…

『歎異抄』第八条 念仏は行者のために、非行非善なり。  

八 一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々 『歎異抄』金子大榮校注…

『歎異抄』第三条 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや 

今月は『歎異抄』第三条です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」(善人でさえも往生を遂げる、まして悪人はいうまでもない。ところが、世の人々はつねにこう言う、悪人…

歎異抄第二条 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり

途中で放りだしてしまった、歎異抄第二条。一ヶ月探しながら反面逃げていた。親鸞聖人は、自分のところにまで念仏を伝えてくれた諸先輩方七人を「七高僧」と呼ばれ、『正信偈』のなかに、「龍樹」「天親」「曇鸞」「道綽」「善導」「源信」「源空(法然)」と…

歎異抄 第一条 念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 

・「歎異抄」第一条 念仏するものを光明の中に摂(おさ)め取とりたもう。それを阿弥陀と名づく。これ即ち阿弥陀は念仏者にその徳を現わし、念仏者は阿弥陀仏の光明の中に自身を見出すのである。「老少善悪のひとをえらばれず」とは、いかなる人をも漏(も)らす…

「歎異抄」序文について

念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に眼覚めしめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである。 (金子大榮) 出典:『歎異抄』 金子大栄校注 岩波書店 【歎異抄】親鸞聖人…

歎異抄十四条について

友人が、歎異抄十四条について、広瀬杲先生の「歎異抄講話3」のところを写真で送ってきた。十四条は読んでも理解しがたく、ここにある金子先生のことばでようやく理解できた。 金子大栄先生が岩波文庫の中でこの十四条をさらっと御領解なさってお述べになっ…