『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

『歎異抄』第八条 念仏は行者のために、非行非善なり。  

 一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々

 

歎異抄』金子大榮校注 岩波書店(53頁)

語句の意味(1)行者のために―念仏するものにとりては。

 いずれの行もおよびがたき身と知る者にも、念仏をもって、わが善とし、わが行とする心は離れない。しかしその心ほど念仏の真意に反(そむ)くものはないのである。念仏は自力の心を離れしめるものであり、他力自然にして行われるものであるからである。

 「おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号(みな)をもておのれが善根とするが故に、信を生ずることあたわず」(『教行信証』化身土巻)とは、親鸞の深く誡めたところであった。

 

毎月8日は『歎異抄』を読み進めてきました。

順番なら第四条なのですがまたの機会にします。

 

念仏は行にあらず善にあらず。自分のとなえる(行)念仏は善にならない。

自分のとなえる(行)念仏を、常に自分の手柄にするけども、

それでは、念仏の信とはいえない。

歎異抄』第八条は短い言葉だが核心をついた言葉である。