『歎異抄』に帰る

-新迷林遊林航海記

「仏となる」とは

(前回同文)「仏となる」とはどんなことであろうか。それはすでにいうごとく報土に往生することである。不安と苦悩とのない境地(涅槃)にいたることである。それが如来と往生人との同証する境地である。しかし仏となるということには、そこに人間の理想が満たされるという意味があるようである。仏とは覚を意味するから人が人である意味を覚り、人となるべき道を行い、真の人となることを仏となるというのであろう。この意味において「仏となる」とは、人間の理想を満足することであらねばならない。

 ここで問題となるのは、人間の理想とは、いかにあるべきものであるかということである。仏教ではそれを自覚覚他(自もさとり、他をもさとらしめる)といい、また自利利他を成就するものというである。我らの求めるものは単なる自身の涅槃ではない。すべての人の不安と苦悩とのないようにということである。しかしその高遠なる理想はいかにしても我らの一生において満足されるものではない。それにしてもなお理想は満足せねばならぬとすれば、さらに生を変えても、その実現を期せねばならぬであろう。たとえその来生の有無は分からないとしても、理想を持つ人間には、来生は要請せられる。我らは永劫をかけて、幾多の生を経ても、その理想を満足せねばならない。その志願に向かって精進するものは、即ち聖道といわれているものである。

 しかし永劫をかけても理想は実現せねばならないということは、言い換(か)えれば実現する時がないということであろう。我らは仏にならねばならぬが、しかし仏にはなれない。その矛盾にあるものが人間である。それのみではない、その人間の理想を実現することは愛憎の悩みを超克(ちょうこく)することとなるのであるが、現実にはかえって愛憎によって反理想に逆転しつつあるのである。よって人間生活は、ただ常に不満足というだけではなく、常に流転(るてん)し輪廻(りんね)しつつあるものである。したがって来生を要請しても、結局は現に感じつつある生死の不安は除かれることはないであろう。人間一生において解決のつかないことは、永劫をかけても解決はつかない。ここに聖道の理想の成就しがたい所以(ゆえん)がある。つまりこれ人間自力を頼むものであるからである。しかるにその「仏となる」ことは如来の「本願を信じ念仏をもうす」ことによって可能となるのである。それが「浄土のさとり」である。即ち阿弥陀仏と同じものとなるのである。

 しからば「本願を信じ念仏をまうす」ものの「仏となる」過程はいかなるものであろうか。それは本願を信ずる者には大悲が感じられ、念仏をもうすものは摂取不捨の光に護られているからである。念仏するとは、常に摂取の光の中に自身を見出すことである。したがって念仏する身には、人間の一切の生活は、すべて光明摂取の中に行われるものとなるであろう。そこに善に誇らず悪を愧(は)じ、悲しみの裡(うち)にも喜びを見出し、快楽の上にも反省せしめられるものがある。また自らが我執を離れ、他の立場を了解して真実に協和しゆくことともなるであろう。それは煩悩のままに流転しゆく人生が、「仏となる」ものへと転成するのである。この摂取不捨の利益によってえられる境地を「正定聚の位」という。それは正しく報土往生に定まれるものということである。またその摂取不捨の徳として心身に現れるものを、柔和忍辱という。それは硬直と柔弱にあらざる健全の身心である。

 これによって永劫無限の時を経て修行しなければ成れない「仏」に、あるがままの人生の 終帰として成らしめられるのである。これ即ち人間の理想としては不可能であることが、如来の本願によって成就することである。しかるにその「浄土のさとり」はすでにいうごとく弥陀と同証するものである。したがって仏とならば、また弥陀と同じく「おもふうがごとく衆生を利益」しうるものとなるのであろう。それは還相回向として説かれたものである。さればその還相回向こそは自力にては不可能とせられた高遠なる理想が如来の本願によって可能ならしめられるということであろうか。「尽十方の無礙の一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ」(第15章)とは、煩悩具足のこの身にも尽きぬ願ある。まことに不思議の事実と言わねばならない。 

歎異抄』金子大榮校注(岩波書店)18頁

(言葉の右横に点を付けることができないため、下線にした。)

 

 「不安定になっている」とお兄ちゃんは言った。腑に落ちた。お兄ちゃんは血の繋がらない弟みたいなもので家族である。遊林にとってはお兄ちゃん。しばらく言い合った。「おまえが前不安定になって俺にあたったのはいつだっただろう」(15年位前?)「俺にあたればいいんだよ」と言って笑った。私は泣いた。ごめんなさいと言った。
 仏かよ。
 私を許すのは私でなくて仏である。聖道の仏・浄土の仏ではないのかもしれない。それはわからない。
 私を許す仏は、阿弥陀仏とは違って不完全である。たぶん。だって、阿弥陀仏にはいつも許されているけど、それが聞こえないのだから。聞こえるのは呼ぶ時。私は阿弥陀仏を呼んでいないのだ。求めていないのだ。「たすけてください」といえない。自分でなんとかしようとして止まない。誰かがいっていた諦められないというのはこういうことなんだろうな。

FFやドラクエをやっていたお兄ちゃんいわく、私はHP120なんだそうだ(HP500くらいだと思っていたのに、違うらしい)。

HP80くらいにはなった。なんとか戦えると思う。

召喚獣を使う。

召喚獣がいなくてもがんばれる。がんばる。なにを。ばかだね。